365日旅日記。(インド編)

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365日旅日記。(インド編:2012年11月20日-12月3日)
day1:2012年11月20日】いざ世界旅行へ

いよいよ、出発の日。

大学生の時以来、実現したいと思ってきた世界一周旅行。
30歳を前に遂に実現の時を迎えた。

とは言え、自分自身、大学生の時以来のバックパッカー、
「行く」と即答してくれた嫁は初めてのバックパック。

「世界旅行に行きたい」と言いつつも、旅行に慣れているわけではない。
ワクワクだけでなく、不安も抱えた旅立ちであるのが正直なところだった。

ブログで見かける他の人たちがやっているほど、挑戦的な「面白い」旅は出来なくても、
自分達の目で世界各地を見ながら、色んな時間を共有できればと思い、今日の日を迎えた。

旅慣れた人じゃなくても出来る等身大の世界旅行をしようと夜通し2人で荷物を詰め込んだ。

▼出発時の2人の荷物@実家

迎えた朝、母が成田空港まで車で送ってくれた。
離陸時間の2時間前に空港に到着し、チェックインを済ませたあと、母と別れた。

帰って行く後ろ姿を眺めながら、いよいよ出発の時がきた、と気を引き締めた。
思えば出発にあたって多くの人に送り出してもらった。

先輩、同僚、後輩、同期、友達、親戚、兄弟姉妹、両親、、、
すべての人に感謝の念を抱きつつ、この世界旅行を最高のものにしようと、心に誓った。

離陸までの2時間は、しばし日本との別れを惜しんだ。

最初の目的地、デリーへのフライトは快適そのものだった。

新婚旅行ということもあり、また世界一周航空券の価格設定的にもお得だったので、
奮発した、初めてのビジネスクラス。
飯も美味いし、お酒も進んだ。
座席もほぼフラットになるので、すっかりいびきをかくくらい、熟睡してしまった。

幸先のいいスタートに、世界一周余裕だな!と思ったのは空港までだった。

空港についていざプリペイドタクシーに乗ろうとカウンターに向かった。
携帯の画面を見せながら、この住所に行きたい、と伝えると200ルピーだという。

言われた額を支払いいざ乗り場にいった。
車に乗り少し走ったところで運転手が何やら言っている。
しかし、こちらも英語はあまり話せないが、
それ以上に彼は英語が喋れないためコミュニケーションが成り立たない。

しばらく意思疎通をはかろうと努力するも、あえなく乗り場に引き返すことになった。
他の人を介して話したところ、
「200ルピーじゃそこにはいけないから、あと100ルピーよこせ」と言う。
何だそれは、と思い、元のカウンターに引き返した。
再度、画面を見せると、間違えたことに対する悪びれたそぶりもなく、320ルピーだという。

間違えていたのであれば、せめて謝罪の一言でもあればいいのに、と思いながら、
他の手段で街に出ようと、最初支払った200ルピーの返金をお願いした。

さっき見かけたエアポートエクスプレスで街に出ようと乗り場に向かってみたら、
まだ7時台なのに、消灯されていた。その他の手段は、僕たちには思い浮かばなかった。

結局、僕たちはタクシー乗り場に戻り、320ルピーを支払った。

何だか早々にジャブを喰らった。

ホテルまでの道中はすごかった。

バス、トラック、乗用車、バイク、自転車、リクシャなどが、
5車線くらいの道路に何故か7ー8台並列して走る。
しかも、たまに物凄い渋滞にはまりつつも、適宜車線変更し進んでいた。

▼デリーの夜の道路の光景
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そして、そこを走る車から鳴らされる無数の大音量のクラクション。

圧倒的にエネルギッシュなインドに圧倒されながら、約一時間後にホテルについた。

日本から予約して行ったホテルは、安いながらも清潔感はあって良いホテルだった。

飛行機の中でも良く寝たが、少し横になったら、また眠りについていた。

day2:2012年11月21日】到着早々、旅行代理店でやられた!

初日の夜は爆睡して、2日目の朝を迎えた。

二人とも前日は、飛行機で快適に寝ていただけなのに、
空港からホテルまでの道中だけで疲れてしまったのか、起きたら10時を過ぎていた。

寝たのも約10時だったから、12時間くらい寝たことになる。

さて、今日はどうしよう。

完全なるノープラン。

11月中にパキスタンに足を延ばそうかと考えていたけど、
どうやって、いつパキスタンに足を延ばすのかもノープラン。

そうそう、デリーで見ておく場所はどこだったかな、と日本で調べた情報を確認。
「レッドフォート」「フマユーン廟」「クトゥブ・ミナール」

地図で場所を確認し、
まず3-4キロ離れた「レッドフォート」に歩いて向かおうと、ホテルを出た。

まだ朝食を食べていなかった僕たちは、どこかでブランチ的なものにありつけないかな、
と試みたが、2か所あった露店的なものは、まだ僕たちにはハードルが高かった。
ブランチを断念し、レッドフォートに向かうことにした。

歩いてみると、結構強い陽射しに、ものすごい大気汚染で、デリーを体全体で感じる。

「お、意外となんか客引き的な人に声かけられないんだな」と思いながら、
ニューデリー駅の陸橋を超えたとき、一人の男性が声をかけてきた。

「どこから来たの?」「あなたネパール人っぽいね!」
「おー日本!私のフレンド千葉にいるね!」

うーむ、なんか怪しい。
いい人なのかもしれないけど、そう思ってしまう。

「どこ行くの?」「レッドフォート行くなら、『政府観光』に行って先にチケット買った方がいい」

いやいや、チケットは行ったら買えるでしょ。
適当にあしらいながら歩いていた。

「このエリアはスラムだから、歩くのは危険だ」
「外国人はカメラか、パスポートか、必ず盗られる」
「リキシャ乗ったほうがいい」

よく見ると、隣に高校っぽいのがあるけど、みんな壁をよじ登って入っていっている。
どうやら、ガラが悪いことは間違いないようだ。

少し歩くと、他の運転手に捕まった。

「このエリアはスラムだから、歩かずに乗った方がいい」

二人に言われると、本当なのかなと思ってしまう。

いくら?と聞くと、20ルピーだと言う。

30円ちょっとか、と日本円に換算して考えながら、
なら、まぁいっか、とオートリキシャに乗り込んだ。

結局、レッドフォートの前に連れて行かれた場所は、観光案内所
「govt. of India department of tourism」の文字が若干怪しい。

▼連れていかれた「偽」の政府観光案内所。本当はexotic adventureと言う代理店。
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ホントにあるのかな、そんな機関と思いながら進められるがまま中に入る。

個室ブースに通されると、普通の対面式のデスク。

▼旅行代理店で実際に接客されたデスク
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迎えてくれたのはRajという日本語ペラペラ、インド人。

これが、怪しいっちゃ怪しいんだけど、悪くない人相で、
「名古屋のHISで7年間働いてた」とか言われると、ちょっと信用してしまう。

「日本人の友達すっごいたくさんいるよ」とか言われるのは、ちょっと怪しいのだけど。

「いつ来たの?」「いつまでいるの?」「どこいくの?」そんな話をしていると、
いつしかレッドフォードのチケットの話はどこへやら、インド滞在中の相談になっていた。

「どこ行きたい?」

ジャイプールに、アグラに、バラナシに、ネパールに、バングラデシュに、カルカッタに…
あ。ブッダガヤも行きたい。
そういえば、父親の言ってた中央インドにある街ってなんだったっけな…
えーっと、そうベンガロールにも行けたら行きたいかな。

「ネパールなんで行きたいの?」
「ネパール行くならこっちがいいよ!」
「バングラデシュ行く必要ある?」
「カルカッタは、マザーテレサの家くらいよ?」

そんな質問がしばし続き、いつの間にか、当初行く予定でいた、
バングラデシュとカルカッタ、ブッダガヤには行かないルートで組む方向で話が進んでいた。

「このスリナガルっていうところはホントきれい!ボートハウスに泊まれるよ!」
「カトマンズでトレッキングするくらいなら、絶対スリナガルの方がいい!」

スリナガルの写真をネットで見せられながら、その魅力を刷り込まれた。

じゃぁ、バングラデシュ削って、スリナガルでも行ってみようかな。

僕たちの気持ちは完全に動いていた。

「二人は、仕事何してるの?」

その質問にも正直に、新婚旅行で仕事を辞めてきたことを伝えてしまった。

「新婚旅行なら絶対スリナガルがいいよ!約束する!!」
「パキスタンにも行くんだったら、スリナガルからアムリトサルに陸路で出れば、その方がいいよ」

ん、なんか話がうますぎるな。
完全に向こうのペースで話が進んでいることも少々不安だった。

あれ、レッドフォートはちゃんと行けるんだよね?

「もちろんこの後、レッドフォートも見れるよ」

あ、そう。んで、いくら?

「ホテルのレベルはどの程度がいい?」
「4つ星とか、5つ星はいらないよね?でも、あまりひどい場所じゃない方がいい?」
「つまりは、安くていいところ、清潔なところだよね、OK!」

なんか話が分かる人だな、と思ってしまった。

「えっと、ちょっと計算するね、、、」

「日本円で、195,000円ね。22.5%のTAXもすべて込でこの価格だから!」

ぬぉ、高い。
そう思いながらも、すでに値下げの交渉に入ろうとしている自分がいた。

思えば、この時点ですでに間違っていたのだ。
値段の問題ではなく、ここで決めるか、決めないかを踏みとどまらなければいけなかったのに。

飛行機が2回×2人で、宿が12泊で…、頭の中でざっと計算してみたのだけど、
うまく頭は働かず、高いけど、ありえない金額ではないと受け止めてしまった。

「OK、入ってなかった、アグラの観光もデリーでの観光費用も付けるからそれでいこう!」

結果、全20日超のプランを195,000円で決めてしまった。

「いくらか、現金で払える?カードだと利息が4%つくから、払える分は現金がいいよ!」

そう言われ、怪しさは再燃しながらも決めてしまったこともあり、
50,000円払い、残り145,000円は手数料込150,000円をルピー(100円=68Rs)に換算し多額をカードで支払った。

再び、カードでの為替手数料がかかってくることを考えると、結局20万円超の買い物となった。
やられた…。

その後、明日は早いからホテルを変えろと言われ、ホテルを移ることになった。

「ホテルを出る際にいろいろ聞かれても何も答えるな。友達のところに行くと言えばいい」

これも今思えば大変怪しかったのだけど、大人しくホテルチェンジに応じ、時計を見ると15時を過ぎていた。

いざ、レッドフォートへと思ったら、ジイヤと僕たちが勝手に名付けた運転手の人から、
「今から向っても、もうレッドフォートは閉まってるよ」と言われた。

まじかよ。じゃぁフマーユーンは?クトゥブ・ミナールは?

「そこなら空いてる。行こう!」ということで、フマーユーンに向かった。

普通にチケットは入り口で買える方式。レッドフォートも間違いなくそうだっただろう。
そう思えば、最初のオートリキシャに乗った時点ではまってたのかと思うと、無念すぎる。

チケット代は出してくれるって話だったよな、とジイヤに言ったら、「ツアーは明日からだ」と言いだす。

おいおい、話が違うじゃないか。

結局、旅行代理店のRajと電話で話し、一度立て替えたのち、現金で受け取ることになった。

「これは、特別にサービスだ!最初は入ってなかったよ!」
交渉の結果渋々現金を渡してくれながら、ここにきて、しれっと嘘を言うRaj。
僕たちの中で、彼の信頼は一気に堕ちて行った。

結局、クトゥブ・ミナールも時間切れで中は見れず、ホテルに戻った。

▼インドの世界遺産はフマーユーン廟で世界旅行初ジャンプ
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インドで20万円は高額すぎるとは思ってた。ちょっと冷静になって考えればおかしい。
後日、ネットで調べてみると、同様の旅行代理店の勧誘事例が多数あった。
はまってしまった。完全なる予習不足だった。
予習不足というか、
大学生以来の8年ぶりのバックパック、嫁と一緒の新婚旅行ということもあり、平和ボケしていたのだろう。

夫婦ともに悪い方向にけん制しあった結果、相手に交渉を押し切られてしまった。

その後は、色々料金のシミュレーションをして、いくらくらい、ぼられたのかを計算したり、
もし日本の旅行代理店で同様のツアーを組んでいたら、もっと高額だったに違いないと考えたりすることで、
自分たちを落ち着かせることに必死だった。
世界一周旅行の開始早々、インドの洗礼を浴びてしまった。

晩飯に食べた、インド初のカレーは美味しかった。店の人も親切だった。
悪い人ばっかりじゃない。それが救いだった。

▼インドで初めて食べたカレー
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こうなったら、お金はやむを得ないから、インドを楽しもう。
そう思い、2日目の床に就いた。

▼組まれたツアープラン
1日目:デリー⇨プシュカル(車)、プシュカル泊
2日目:プシュカル泊、キャメルサファリ付
3日目:プシュカル⇨ジャイプール(車)、ジャイプール泊
4日目:ジャイプール泊、観光付
5日目:ジャイプール⇨アグラ(車)、観光付、アグラ泊
6日目:アグラ⇨カジュラホ(夜行電車)
7日目:カジュラホ泊
8日目:カジュラホ⇨バラナシ(夜行電車)
9日目:バラナシ泊
10日目:バラナシ泊、観光付
11日目:バラナシ泊
12日目:バラナシ⇨ネパール(バス)、国境周辺泊(自費手配)
13日目:ネパール泊(自費手配)
14日目:ネパール泊(自費手配)
15日目:ネパール泊(自費手配)
16日目:ネパール泊(自費手配)
17日目:ネパール⇨デリー(飛行機)、デリー泊
18日目:デリー⇨スリナガル(飛行機)、スリナガル泊(ボートハウス)
19日目:スリナガル泊(ボートハウス)
20日目:スリナガル泊(ボートハウス)
21日目:スリナガル泊(ボートハウス)
22日目:スリナガル自由行動(自費手配)
23日目:スリナガル自由行動(自費手配)
24日目:スリナガル⇨ジャンム(バス)、ジャンム⇨アムリトサル(電車)

day3:2012年11月22日】 一路、プシュカルへ

昨晩、移動したホテルで3日目の朝を迎えた。

「君たちが今泊まってるホテルよりいいよ!」と言われて移ったが、
どうってことはない、同じレベルのホテルだった。

前日に組まれたツアーにより、
7時半にホテルにジイヤが迎えにきてくれて一路プシュカルへ。

プシュカルへの道は単調だった。

はじめ、デリーを出たあたりで外資系企業のビルが林立していた時は、
へぇ〜デリーは、外資系企業が街の外に集まってるんだ、とか、
道にラクダが走ったり、牛が歩いてたりするのを見て、
最初のうちは興奮していたが、後に見慣れてしまい、またラクダか、となってしまった。

ジャイプールを通過し、プシュカルについたのは、15時半だった。
8時間ほど、車に揺られていたことになる。

自分で来たら大きな荷物を持って大変だっただろうに、
エアコン付の乗用車で来れて楽だったな、
とツアーを組まれてしまった自分を慰めることを忘れなかった。

ホテルにつき、ジイヤから、明日の16時からキャメルサファリの予定だから、
それまでは街中をぶらぶらすればいい、と言われた。

その際の注意点として、3つのことを言われた。
「花を渡してくる人がいるが、絶対に受け取ってはいけない」
「観光客が多く、人も多いからものを取られないように」
「屋台ではものを食べないように」とのこと。

一つ目は説明を聞いてもよくわからなかったが、いざこざに巻き込まれると面倒そうだということだけはわかった。

その後ぶらぶらしてみたが、ビビってみた割には欧米人も多い普通の街だった。
狭い道をバイクがクラクションならしながら駆け抜けて行く。
その姿に相変わらずインドはすごい混沌さだなと感じながら、初日のプシュカル散歩を終えた。

▼プシュカルの街並み
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夜、宿でインターネットをしながら、
ツアーに組み込まれたスリナガルについて、調べてみた。

カシミール地方って、パキスタンとの紛争をしてたところだったけど、今大丈夫なんだっけ。

調べてみると、
旅慣れたバックパッカーや国際結婚した日本人のブログが見つかり、
「綺麗なところだし、言われているほど危険ではない」との内容を見つけた。
一方で、旅行代理店に高額のツアーを組まれ連れて来られてしまった上、
ボートハウスに監禁され、さらに金を搾り取られることもあるので注意という記事も見つかった。

まさに自分たちが該当するようにも思え、さらに不安を覚えた。

とりあえず、旅行代理店のRajに宿泊先名を確認するメールを打って、寝ることにした。

「スリナガルで自分で手配できると言っていた、トレッキングの値段を教えてくれないか。
あと、スリナガルでの宿泊先の名前も教えて欲しい。
日本の外務省の渡航情報にも載っているので、親や友達に宿泊先を教えておきたいんだ」

day4:2012年11月23日】プシュカルのラクダに感動!!

4日目の朝を迎えた。

砂漠のある乾燥地帯だからか、無性に喉の渇きを覚えた。

夕方のキャメルサファリまで時間がある。
さて、それまでどうしよう、と朝食時に折り鶴を折りながら嫁と話していた。

「世界の子供たちに鶴を折ってあげるんだ!」と嫁が意気込んで、
折り紙を持って来たのだった。

ここプシュカルは、ヒンズー教の聖地でもあり、お寺が多い。
折角だから、昨日は大きい荷物を抱えていたため入れなかった寺院にもう一度行ってみよう、
と再び散歩に繰り出した。

ちょうど、ラクダ市というお祭りがある関係で、観光客も多ければ、出店も多く出ていた。
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そのような情景を眺めながら、寺院に行ってみたが、
荷物は小さい荷物でも持ち込み不可で、靴も脱がなくてはいけないという。
お店に預けることに不安を感じ、嫁に荷物を預け1人で、寺院に入った。

入ってみると裸足の人の行列。ちょっと足場もベタついていた。
一度は列に加わってみたが、飛び回るハエに足のベタつきも気になり、
宗教にもあまり興味が湧かず、列を外れ、ぐるっと一周し、嫁の元へと戻った。

よく、宗教は面白いと耳にした気もするが、僕にはあまり刺さらなかったようだ。

その後、手にしていた鶴をみて、外国人観光客が声をかけてきた。

「それは売ってるの?どこで買った?」

いやいや、僕たちが創ったんだよ。と答えながら、
やっぱ折り鶴って海外の人に興味を持ってもらえるんだ!と、心踊った。

もし欲しいんだったらあげるよ!と言ったら、
喜んでもらってくれた。

それを見ていた、
インド人の青年も「僕も欲しい」とばかりに近寄ってきたので持っていた鶴をあげた。

世界であれやろうこれやろうと思ってはみてたのだけど、
実際にはその土地に慣れるのが精一杯だった
それ以上のことはなかなか出来ないと感じていた中で、一筋の光に見えた。

▼折り鶴をあげたインド人青年と
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明るい気持ちになって、夕方からキャメルサファリに出かけた。

ツアーに組み込まれていた2時間のラクダとの旅。

ラクダに乗っての目線は思った以上に高かった。
そして、このキャメルサファリでの最大の収穫は、
ラクダ市で集まったラクダ達を目の当たりにできたことだった。

ラクダ市というからには、ラクダがたくさん集まってくるんだろうとは思っていたが、
このラクダ達、自分たちが散歩していた通りのもう一周外の外れに大量に集まっていた。

▼ラクダの群れの一部
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2時間程度のツアーで街周辺を回ったので、いわゆる「砂漠」という光景ではなかったが、
あれだけのラクダが集まっている様子は圧巻だった。

あたり一面、ラクダばかりで、嫁共々、すごい、と歓声をあげていた。

夕陽もみて、キャメルサファリは終了した。

▼夕陽で伸びるラクダと僕たちの影
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出発地点に戻るとラクダツアー会社の人が、「ラクダ使いの人はどうだった?良かったか?」と聞いてきた。
僕たちは、素直に良かったよと答えると「じゃぁチップをあげなさい」と言ってきた。

出発前にも「良かったと思ったら、チップをあげればいい」とジイヤに言われていた。

嫁と相談し、ラクダ使いの人に20ルピーのチップを渡そうとすると、
ラクダツアー会社の人が横から「いくら渡そうとしている?20じゃ少ない」と言ってきた。

なんだと、と思ったらすかさず、
「100あげなさい。彼は君たちのために2時間も歩いたんだ」とぬかしてくる。

いやいや、2時間歩くための費用はすでにちゃんと払ってるでしょ、と言うと、
ラクダ使いの彼まで、「100くれ」と言ってくる。

何でお前らに、チップの値段まで決められなきゃいけないんだと思いながら、
そんなお金はないと言うと「なんなら両替してきてやる」とまで言ってくる

ホントにどうしようもない奴らだな、と思いながら、
40ルピーを渡そうとしても受け取ろうとせず、結局最後は、50ルピーで手を打った。

100円200円の問題だから、どうってことないんだけど、
この後味の悪さがインドなのだと理解してきた。

夜、旅行代理店のRajからの返答が来ていた。
「心配するな。大丈夫。
トレッキングの値段は『best price』を約束するよ!
宿の名前は次にデリーで会った時に言うよ!」

全くこちらからの質問に答えていないことにがっかりした。

これは危険かもしれない。

彼は信頼できそうだと思い、名刺を渡していたことも思い出した。
あの名刺が次の誰かを誘う際の小道具になってしまうと考えると、
他の日本人に申し訳ない気持ちで一杯になった。

再度、Rajにホテルの名前を教えるよう返信を打ちながら、
一応他の人の意見も聞いてみたく、
Facebookに状況を公開して友人達からの反応を待ってみることにした。

day5:2012年11月24日】ピンクシティで初インドマック

起きて、まずFacebookをチェックした。
多くの友人たちからメッセージなり、コメントなりで反応が届いていた。

反応としては、
「インドでは自分を信じろ」
「危ないところは気をつけろ。引くのも勇気だ」
「旅人としてのレベルをあげて頑張ってね」
といったところだった。

見知らぬ土地で不安な中、遠く日本から離れているインドにいても、
こうして繋がっていられることは、とても安心感があるし、頼もしかった。

「自分を信じろ」
旅人としてのレベルがまだ低い自分たちなので、
Rajの返信次第ではお金を捨ててでも、引く方向を嫁と確認した。

スタート早々、危険な目にあっては、流石に笑えない。

一通り、メールをチェックし、インターネットをしたのち、プシュカルを後にした。

インターネットには、
旅人の中にはプシュカルの魅力に惹かれ居着いてしまう人もいると書かれていたが、
自分も嫁も全く共感は出来なかった。

9時にプシュカルを出て、車を走らせた。

道中、ジイヤにもスリナガルについて聞いてみると、
「個人でいくと危険だけど、旅行代理店手配なら安心だ」とのことだった。
全く反対の意見も耳にしていたので、改めて「信じるのは自分だ」と感じた。

4時間のドライブの後、ツアー初日に通過した、ジャイプールに戻ってきた。

ピンクシティの異名を持つ、ジャイプール。
数年前のロンリープラネットを見ると、ラジャスターン州随一の無秩序の街らしい。

ホテルに着き、昼も食べていなかったので、街に繰り出した。

この日はムスリムの祭りがあるということで城内のメイン通りはごった返しており、
ジイヤから、プシュカル同様、「くれぐれも荷物には気をつけろ」と言われた。

城内の露店はこれまた強烈で、僕たちには食べられなさそうだったので、
城内のホテルから、城外のメイン通り、MI通りを目指してみた。

各国で一度は行ってみたいマクドナルドをホテルまでの道中見かけていた。
ただ、出てきたMI通りは端のようで、
マクドナルドはおろか、他の店も見当たらず、ただひたすら歩いた。

歩くこと1時間、当初見かけていたマクドナルドにたどり着き、遅めの昼食をとった。

「マハラジャバーガー」「マサラベジ」は名前に劣らず、期待通りカレー風味の味だった。
「カレー風味」とは言え、カレーではない料理は、
カレー続きだった、僕たちにはちょっとした休息になった。

▼見た目は日本と大体一緒のマック
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ぶらりと、ホテルまでまた歩いて帰ってきたが、
道路の交通量の多さからくる混沌も然ることながら、
歩道を青空公衆便所が占拠していて悪臭がひどいというインドのカオスっぷりは相変わらずだった。

day6:2012年11月25日】ジャイプール市内観光

「たくさんの旅行客がいるから、早く出発しないとダメだ!」
ジイヤのその声かけで、7時集合で出発することになっていた。

宿の朝食も7時からだったので、食べられないのか?と昨晩聞いた時は、
「旅行客がたくさん来るから7時には絶対出なきゃダメだ」と言っていたのに、
朝会ってみると「朝食は食べたのか?料金に入ってるんだから食べた方がいい」と言う。

自由の国、アメリカ以上に、インドは自由の国なのかもしれない。

朝食を食べ、結局宿を出発したのは7時40分位のことだった。

まず向かった先は、HAWAMAHAL。
そこで、この旅初めての日本人観光客集団に出くわした!

バスに貼られた「インド5日間の旅」という日本語の案内書きに妙にホッとした。
デリーに着き、変なツアーを組まれ、殆ど日本人と遭遇して来なかった5日間。

それはそれで、日本人は自分たちだけじゃないかという高揚感もあったのだが、
いつしか、欧米人と一緒になるだけでホッとしている自分たちがいた。

そんな僕たちにとって、日本人の集団は相当、安堵感をもたらしてくれた。

「写真撮ってもらっていいですか?」思わずツアーに混じって日本語でお願いする自分がいた。

▼日本人ツアーと遭遇したHAWAMAHAL
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次に向かった先は、AMBER PALACE。
ここにも、大量の観光バスが止まっており、
日本を含むアジア各国、欧米からも多くの人が集まっていた。

城内に向かう、象に乗ったのだが、
乗り場、降り場には大きく「No tips, please」の看板があった。

流石に多くの観光客が集まるここは大丈夫なのか、と思ったのが大間違い。
写真を撮るよと言ってきた象使いに、しょうがなく写真を撮ってもらったら、
「チップをよこせ」「他の人もみんなあげている」「写真も撮った」「いい時間だっただろ」などと言い出す。

もう、こんなインドにも慣れてきたので、
いやいやもう既に払ってるし、チップはあげないよ、と言って象を降りた。
おかげで「いい時間だった」のも、台無しだ。

結構強硬にチップを払いたがらない嫁にも感心した。
「こんな写真消すからチップなんて払うか!」
この時点で、大分嫁のインド嫌いは固まっていたのだと思う。

▼象に乗っていざ、城内へ
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次に向かったガイトールでは、3人組の韓国人旅行客と出くわした。
男1人、女2人でどんな関係だろうと考えていたら、
逆に美人韓国人に「一つ聞いてもいい?」と声をかけられ、何だろうとドキドキした。
聞いてみると、
「シティパレスに今日行く?リキシャのドライバーが今日は休みだっていうんだけど」と言う。

運転手に確認したら、
「当然やっている。誰が休みだなんて言ったんだ!」と呆れ顔だった。
それを伝えると、笑顔でどうもありがとうと言って去って行った。

そういえば、
AMBER PALACEでは、欧米人の老婦人が釣り銭を巡ってインド人と言い争ってたし、
日本人のみならず、みんなインドでは闘いながら、旅をしてるんだなぁと感じる。

そして、どうでもいい話だが、旅人には結構、美人が多い。
質問してきた韓国人もそうだが、街行く人、宿で見かける人、結構、美男美人が多い。
人間観察しながら、「あの人美人だね」とか話すのが、嫁との一つの楽しみになってきている。

その後、シティパレスを観光した。
なんてことはない、当然のように空いており、観光客がたくさんいた。

ここまで来ると、嘘を平然とつけるリキシャの口車に感心してしまう。

今日も午後にムスリムのフェスティバルがあるようで、
通りは人でごった返し、危ないのであまり出歩かない方がいいと運転手が言うので、
2時を前に宿に引き返し、宿でゆっくり午後の時間を過ごした。

カレーばかりの生活に飽き、友達から餞別に貰った梅干しを食べた。
日本でそこまで、梅干しを食べることはなかったが、海外で食べた梅干しは絶品だった。
それとともに、とても日本の白飯が恋しくなった。

▼インドで食べた高級梅干し
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ジャイプールの宿にはWi-Fiが通っておらず、
他の友人たちやRajから連絡がきているかも確認出来なかった。

それにしても、Wi-Fiが通じないと途端に孤独になる。

day7:2012年11月26日】ジャイプールからアグラへ

朝9時。ジャイプールを出て、アグラに向かった。

途中、ジャイプール出てすぐ、モンキーテンプルに立ち寄った。
モンキーテンプルというからには猿がたくさんいるのかと思ったら、
道端の方が多いくらいで拍子抜けした。

▼モンキーテンプル:2つの沐浴場の上に寺がある
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この寺でインドに来て初めて「バクシーシ」と言ってくる人を目の当たりにした。
ガイドブックを見て、物乞いを意味するバクシーシ(喜捨)の存在を認識してはいたが、
「バクシーシ」と言ってくる老人、幼児を直に見ると複雑な気持ちになった。
例え、今、目の前の人にいくらかのお金を渡したとしても、何も根本的な解決にはならない。
それどころか幼少期からお金を貰うことに慣れてしまうのは、逆によくないのではないか。
そのようなことを考えながら、目の前の人に手(お金)を差し出せない自分がいた。

多くのインドの人は沐浴をしに訪れていた。
沐浴はプシュカルでも見たが、
若い女性までもが胸をさらけ出し、
公衆の面前でお世辞にも綺麗とは言えない水をかぶり体を清めている姿は、
無宗教の自分には奇異に映った。

アグラには、15時半頃到着した。
タージ・マハル近くのキレイな宿だった。

▼アグラで滞在した宿
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「日の出のタージ・マハルが最高だ」ということで、
少し散歩したのち、タージ・マハルは明日にとっておき、ホテルで休養することにした。

Wi-Fiの使えるホテルのロビーで、メールのチェックをした。
旅行代理店のRajからは、
一昨日の時点で「OK!明日には宿の名前を連絡するよ!」とメールが来ていたが、
昨日、そのようなメールは受信しておらず、ある意味諦めも付いた。
「インド人嘘つかない」って昔聞いたような気がしたけど、あれって、どんな話だったっけな。
皮肉ってただけだったのか。

友人たちからは様々なアドバイス・反応が届いており、とても心強かった。

夜、ロビーでネットをしているとイケメンフロントマンから「まだ寝ないのか」と声を掛けられた。

「日の出のタージマハルを見るなら、日の出は6時半だよ」
「チケット売り場知ってるか?入り口と逆だから気を付けてね」とのこと。
丁寧に地図に印をつけて教えてくれた。

「たまに、チケット買わずに入り口行って、チケット買いに戻ってるうちに日が昇っちゃう人もいる」らしい。
危うく、まさにその人になりかねないところだった。
インドにきて、このような積極的なサービス精神を感じたのは初めてかもしれなかった。

寝ようと部屋に戻ったところ、電話がかかってきて、
「wake up callはいるか?何時がいい?」
「カードは使えないから、現金なければ両替もしてあげるからね」と言われ、
wake up callを5時半にお願いして電話を切った。

どこの国でも、イケメンは中身までイケているのだな、と感じた。

day8:2012年11月27日】タージ・マハル!そして、この旅初の夜行電車へ

5時半にフロントからのwake up callで行動を開始した

夜明け前から声をかけてくるリクシャを振り切り、
6時に、昨日言われたチケット売り場に辿り着いたら既に数名の欧米人がいた。

「外国人・インド人」×「男性・女性」で4つにカウンターが別れており、嫁と別れて並んだ。
チケットカウンターが空くまで、15分ほど待った。
結局、1人の担当者が男性・女性両方の列を担当しており、まとめて2枚を購入した。
多くのカップルが、わざわざ別々に並んだのに、と拍子抜けした顔をしていたのも印象的だった。

タージ・マハルの東門までは、チケット売り場から約1キロ。
門の近くになんでチケットカウンターを作らないのかは不明だが、
不明なことが多すぎるこのインドでは、あまり違和感を抱かなくなってきている自分がいた。
受け入れて前に進むしかない。

▼夜明け前のチケット売り場から東門までの道
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東門についてみると、開門を待つ観光客で列ができていた。
ここもまた、「外国人・インド人」×「男性・女性」の4列だったので別れて並んだ。

結局、開門は日が昇り明るくなってからだった。
「日の出のタージ・マハルが最高だ」と言われた「日の出」は、
まさに明るくなる時を言っていたのか、明るくなってからを言っていたのか定かではない。

とりあえず、セキュリティチェックを済ませ、タージ・マハルの本堂を目指した。

▼飛行機と同じようなセキュリティチェックをして構内へ
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タージ・マハルは荘厳だった。
写真でこれまでもたくさん見てきたし、そこまで期待していなかったのだが、
これはいい意味で期待を裏切ってくれた。

圧倒的な迫力。
一国の王が愛する人の墓として22年の歳月をかけて造った建築物ということで、
かけてきた手間も費用も、そして何より、想いも感じられる荘厳さだった。

▼タージ・マハル
IMGP5878.JPG

スカイツリーもいいが、
これくらい壮大な建築プロジェクトが現代にあっても面白い。
手間も費用も想いも集めるのは相当、難儀ではあるが。

タージ・マハルは、様々な国から多くの観光客が訪れ、周辺には沢山のホテルが整備されており、
これまで訪れたインドの中で一番の「観光地」だった。

その後ホテルに戻りチェックアウトしたのち、
午後はジイヤに連れられて、アグラフォートとベイビータージを見学した。

車の中から、街中を眺めつつ、インドの多様性にただただ驚いた。

次の目的地、カジュラホへは、この旅初の夜行列車となった。
出発はアグラカントメント駅を23:20発だった。

夕方に観光を終えた僕たちは早い夕ご飯を食べたのち、
早めにアグラカントメント駅に向かった。

駅はインドの一般の人々でごった返し、
皆、大きな荷物を抱え地べたに座り、自分の電車を待っていた。

これまで日本で、「寝台列車に乗ってみたい」と嫁は言っていたものの、
インドでは、描いていた「寝台列車」は来そうにはなかった。

そして、「時間に正確ではない」と言われる電車に本当に乗れるのか、
2人とも気が気ではなかった。

電車はほぼ時間通りにやって来た。
そこで問題は起きた。
乗り場がわからないのだ。

自分たちが乗る前の電車をみて、乗り場を確認したのだが、
どうも、車両によって乗り場が全く変わるらしく、
自分たちが乗る予定の「B2」の表示が見当たらない。

停車時間は10分間ということで、
慌てて休憩所の係りの人に訪ねて見ると、「あっちだ」と先頭方面を指差す。

走って行ってみると、全く「B2」は見当たらない。
そこで、別の2人組の係りの人に訪ねてみると、
1人は「ここらへんだ」と言い、
もう1人は「あっちだ」と今来た方向を指差す。

少なくとも「ここらへん」ではなさそうだったので、
来た方向に2人でバックパックを担ぎながら走って向かった。

最初に尋ねた休憩所を過ぎると、
まもなく、「B2」の表示が見えてきた。

良かった、間に合った。

翌日の宿も決まっている中で、
危うく、アグラに取り残されるところだった。

▼乗車にてこずったアグラカントメント駅のホーム
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朝が5時半おきだったのと間に合った安堵感から、
自分の寝台を見つけるとすぐに眠ってしまった。

day9:2012年11月28日】カジュラホでエロスの遺跡を堪能

夜、何度か寝返りをうちつつも、
目が覚め時計をみてみると6時を過ぎていた。

カジュラホ到着が6時半頃だったから、
そろそろ準備しようと動き始めた。

少し離れたところにいた嫁に声をかけたのち準備をしていると、
カーテンの隙間から寝起きで放心状態の嫁の姿が見えた。

僕の存在に気付きスイッチが入ったようだったが、
憧れの寝台列車が、インドでの狭くて落ち着かない寝台列車だったことへの落ち込みかと気になった。

カジュラホに着くと、ホームからリクシャの勧誘が凄かった。

「100ルピーでどうだ」と声を掛けられたが、
事前にジイヤに相場を聞いていたため、50しか出せないと言い早々に妥結した。

夜明けの風は冷たかった。

▼朝のカジュラホ駅
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ホテルに到着後、早朝だったので、荷物だけ置かせてもらおうと思ったら、
運良くタダで部屋にはいる事ができた。

部屋で休んでいると、ホテルの人が勝手に部屋に入って来た。
ここまで来ると期待もしていないのだが、
インドにはデリカシーというものがあまり無いらしい。

旅人のブログを読んでも、「ここはインドですから」と割り切る人が非常に多い。

昨日も駅のカウンターで並んでいると、
後ろから来たインド人がどけと言わんばかりに割って入り、
まだ他の人と話している駅員に対して、チケットを差し出し勝手に話し出した。

ここはインドですからね。

中には非常に打ち解けて楽しんでいる旅人のブログも見てたので、
拒否してても始まらないなと、
半ば強引ではあったが、ホテルの人に連れられロビーまで行くことにした。

最初は翌日のサトナ行の車の話かと思っていたのだが、
その話は殆どなく、始まったツアーの勧誘。
「滝を見たくは無いか?」
「テンプルはどうだ?歩いていくにはちょっと遠い。」

いや、カジュラホは歩いて回りたいんだ。と伝えると、「歩くには遠い」と言う。
3キロくらいだろ。と聞くと、「西群まで4キロはあるし、東は5キロ10キロある」と言う。

西群まではまだしも、東群はそこから1キロ程度とガイドブックにも書いてある。
とは言え、気を悪くしてもいけないので、
「歩きたいんだ。歩いてじっくりこのカジュラホを見たい」と伝え、ツアーを断った。

その後、僕たちは歩いてカジュラホの寺院群に向かった。

世界遺産でもあるカジュラホの寺院群は、これまで何人かに薦められてきたが、
実物は精巧で、そして、独特で、不思議な雰囲気を持った寺院群だった。

▼カジュラホの寺院群
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▼エロスを表現した彫刻
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西群に引き続き、東群を散歩してゆったり見て回った。

やっぱ歩ける範囲は歩いて回るのが一番だと思う。

道中、小さい子供達から、「ペン頂戴!」とよく声をかけられた。
「ペンを持っていくと子供が喜ぶ。」とは聞いていたし、
あげてきた旅人も多いのだろう。

自分には、生憎持ち合わせの余分なペンがなかった。
ただ、ペンがあったとしてもあげるか迷っただろう。

あげたことによって生活がよくなるのか、
また、根本的に生活をよくするにはどうするべきなのかを考えさせられた。

宿に戻りネットをしようとすると、
どうも電波の調子が悪く、インターネットに繋がらない。

ここはインドですからね。

思うことは、日本人以外でも同じらしい。
ネットが繋がらず困っていたホテルが一緒のアメリカ人と話すと、
「一ヶ月旅をしても、インドは毎日が驚きの連続だ。」と言っていた。

インド政府は「Incredible india!」と銘打って観光誘致をしているが、
「まさに、毎日がincredibleだ!」とも。さすがアメリカ人のユーモア。

ネットが繋がらなかったおかげで、
カリフォルニアから来ていた旅行客と繋がることが出来た。

捨てたもんじゃない、インド。

来年の再会を約束し、連絡先を交換し別れた。

day:2012年11月29日】インドの時間の流れ方

朝起きていつも通りの朝食を食べた。

トースト、バター、ジャム、オムレツ、チャイ。
インドに来てからは毎朝、同じ朝食を食べている。

今夜はサトナを19:35に出る夜行電車で、バラナシに向かう予定のため、
15時に迎えが来るまでは自由時間だった。

昨日、カジュラホの寺院群を全て見て回っていたので、
久しぶりにホテルでゆっくりと過ごすことにした。

昨晩繋がらなかったネットも今朝は問題なく繋がった。

溜まっていた写真の整理、ブログの更新をしながら、出発時間を待った。
たまにバルコニーで浴びるインドの強い陽射しは心地よかった。

15時に待ち合わせ場所に向かったが、案の定車はまだ来ていなかった。
インドである以上、それで焦ってはいけない。

焦ってはいけないと知りながらも、夜、焦ることになるのだが。

15分、遅れてやって来た車に乗り、サトナに向かった。
カジュラホからサトナは車で2時間半。
これまでの中でも、舗装が一番壊れた道で、結構揺れた。

道中、車が崖から落ちたとやらでクレーン車での引き上げをやっていたため、
渋滞ができている箇所もあったが、無事出発の1時間半前にはサトナの駅に着いた。

サトナの駅はアグラカントメント駅ほどは整備されていない駅だった。
ホームに相変わらずの溢れん人がいるばかりか、
ホームにも、そして、線路にも、牛や犬がいるという目を疑うような光景が広がった。

▼サトナカントメント駅のホーム
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見渡す限りのインド人、と牛と犬。
居場所が落ち着かない僕たちは、
お腹を満たしつつ、時間を潰すため軽食が食べられる店に入った。

そこまで広くない店内で、何を食べようと考えていると、
多くの人が、
クレープ状に焼かれたものと、カレーのようなものを頼んでいるのが目に付いた。

よし、あれを食べてみようと、店員にあれは何?と聞くと、
「No.28かNo.29だ、ベジタブルピザかチーズピザだ」と言う。

自分の知ってるピザとは明らかに違うので、
何度か聞きなおすのだが、「ピザだ」と言う。

後で、それの名前はマサラドーサと言うことを知ったのだが、
言われたままに、No.28のピザをくれ、と頼んでみた。

悪い予感はしていたが、
しばらくして出てきたNo.28のピザは、僕たちの知ってるピザだった。
しかも、本場ではないので、ちょっとブサイクなピザだった。

嫁と顔を合わせ、お互い何も言わず、有難く頂くことにした。

「有」ることが「難」しい。
ここはインドですから。

▼ある意味予想通り「普通のピザ」
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食べ終わった後、水とスナックを買い、店を出た。

牛が横を通り過ぎて行くホームに座り、
過ぎ去るインド人の凝視にも耐え、電車を待った。

電光掲示板に映る僕たちの電車を眺めていると、
30分ほど前にして突然に出発時間が変わった。

19:25着だったはずが、何時の間にやら20:00着という表示になっているのだ。

慌てて、周りの人に確認すると、どうも電車が遅延しているらしい。

確かに、一つ前の電車も同様に到着・出発時間が変更になっていた。
30分遅れることくらい、もっと前に分かっているだろうに、と思いながらも、
大人しく電車がくるのを待つことにした。

しかし、変更になった20:00になっても、前の電車すらこない。
号車を示す電光掲示も消灯したままとなっている。

ただでさえ、乗る電車・号車の分かりづらいインドの電車において、
さすがに、どうしたものかと不安になり焦って来た。

遅れてやって来た一本前の電車が到着する頃、
念の為、売店の人に先に号車の停車位置を聞いておく事にした。

すると、
「君たちの電車は、今来てる次の電車だ。
到着の5分前に電光掲示が出るからそれを確認するといいよ」と言われた。
どうも、インド人でも分からないような複雑さらしい。

一本前の電車が出発したが、電光掲示はずっと一本前の電車を表示していた。
流石に、どうしたものかと、すぐ動けるようホームを行ったり来たりしていると、
突如、到着予定のない隣のホームに一台の電車が滑り込んで来た。

光った電光掲示には、自分たちが乗る電車の番号が灯った。
時間が遅れるのは想定内でも、まさか、違うホームに来るとは予想外だった。

慌てて自分たちの乗る号車を探して走り、
自分たちの座席までたどり着く事ができた。

毎度毎度インドの電車にはハラハラさせられる。

電車が出発したのは、予定の1時間半後の事だった。

day11:2012年11月30日】「ホームステイ」と言う名のホテル

1時間半遅れて出発した電車は、
ほぼ1時間半遅れをキープしたまま、朝6時過ぎバラナシ駅に到着した。

▼到着時のバラナシ駅ホームの様子
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迎えに来てくれていたツアー会社の人に連れられ、宿泊場所へ向かった。

怪しいツアー会社に決められてしまった今回の宿泊場所で一番不安だったのが、
このバラナシだった。

宿泊先の名前が、「BRENDA HOME STAY」
三ツ星のホテルという事で話をしていたのに、ホームステイってなんだよ!と、
インド不信が募る嫁の文句を聞きながらのバラナシ到着だった。

嫁はこの頃から、
インドを出国できるカトマンズへのカウントダウンを始めていた。

しかし、今回ばかりはその不安は杞憂に終わった。

宿までの道のりは、
インドの普通の住宅街を抜けていくという不安そのものの道だったが、
突き当たりにあった宿泊場所は部屋数は少ないが普通のホテルのようだった。

そして、入ってすぐ左においてあったルーターが、
Wi-Fiが使える事を示してくれていた。

朝食を注文し頂いたのち、
部屋に通してくれたが、部屋の中も綺麗で窓からはバルナ川を見渡せた。

これなら、快適だね、と、
インド疲れと夜行列車の疲れもあってか、この日は部屋でゆっくりすることにした。

▼バラナシで滞在した部屋の様子
IMGP6200.JPG

ツアーにバラナシでの観光が含まれていたので、詳細を確認しようとすると、
バラナシの旅行代理店の人が、20分ほどでやって来た。

ツアーに含まれている、ボートツアーとシティツアーの説明ののち、
お決まりのオプショナルツアーの提案を受けた。

自分達で行けば全部で300~500ルピーで済みそうなプランを、
「1人1000ルピーだ」と言ってくるので、考えとくね、と丁重にお断りした。

相変わらずのインドだ。

昼寝をしたのち、宿の周りを少し散歩してみたが、
相変わらずの排気ガスと砂埃とクラクションの音に、
静かでのんびりしたカジュラホとは違うバラナシの都会さを感じた。

この日は宿泊先で、夕食を食べ、
部屋で写真の整理やらブログの更新をして過ごした。

day12:2012年12月1日】ガンジス川とご対面

ガンジス川のボートツアーへは、
朝陽が拝めるよう、朝6時に宿を出発した。

宿まで迎えに来てくれた車に乗り、
ガンジス川付近に着くと別の人にバトンタッチ。
その人が川沿いのガートまで連れて行ってくれると、
また、ボート乗りにバトンタッチする形でボートツアーは始まった。

ダシャーシュワード・ガートを出発したボートは、
火葬場でもあるマニカルカ・ガートらへんまで行き、少し戻って終了。

怪しいツアーで、
どの位の時間のボートツアーか確認もしていなかったから、
期待もしていなかったが短いツアーだった。

降りるとボート乗りが、
「自分はガイドじゃない、単なるボート乗りだ」と言いながら、
ちょっとした寺の観光に連れ回し始めた。

自分たちは、シティツアーもあるし、
運転手にもボートが終わったら戻って来いと言われていたので、
プチツアーから外れ、車に戻ることにした。

聞いてはいたが、ガンジス川沿いの小径は迷路のようだった。
そんな、狭い道にも牛がいて、すれ違うのがやっとだった。

▼ガンジス河から大通りに出るまでの小路
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戻ると運転手が「これからシティツアーだ」と言う。
自分たちは朝食後に行くつもりでいたのでそれを伝えると、
「いや、今から3つの寺を見に行く」と言ってくる。

いやいや、昨日、旅行代理店の人は5個行くって言ってたし、
時間はお前たち次第だと言っていたよ、と言うと、
「ここには2000も寺がある。5個ってどこだ?メインの3つに行けばいい」と言う。

メインの3つの名前を教えろ、と聞いても、
1つ目は、1つ目は、、、と言い、完全に拉致があかない。

3つの名前を聞けた時には、
もう既に、こちらは当初の話と違う状況に苛立ち、
観光するような気分ではなくなっていた。

運転手に連れられて行った寺にも足を少ししか踏み入れず、
宿に戻るよう運転手に伝えた。

すると、宿に戻るはずの車だったが、
何時の間にか「ここら辺が、ムスリム街だ」と違う場所にいる。

「ムスリムの普通の生活が見れる」と、
半ば強制車を降ろされ、連れていかれたのは、
家庭で営まれている織物工場。

宿はどこいった。

変わらずの、Incredible India!だった。

▼織物工場の内部の様子
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ここはインド、ここはインド、そう思いながら、
織物の現場を見ているうちにある程度心を落ち着かせた。

目の前の織物を案内してくれる人は悪い感じの人ではない。
織物自体は元々買うつもりでいたので、2つ500ルピーで購入した。

その後、宿に戻った。
車から降りる際、基本チップを払っている僕たちだったが、
このIncredibleな運転手には、ありがとうとは言いつつも、
目を合わさず、チップも渡さず、振り返らずに別れた。

この日は午後まではシティツアーと予定を組んでいた僕たちは、
朝9時を持って、当初予定していたイベントを終了してしまった。

さて、どうしよう。
いつもの朝飯を食べながら、
サルナートに行き、その後またガンジス川に行ってみようということになった。

宿の青年はとても親切で、オートリクシャの相場を尋ねると、
大体の相場を教えてくれた上で、大通りまで一緒に来てくれ、
サルナート行のオートリクシャを捕まえてくれた。

サルナートは、インドでは珍しい仏教寺院で、
どこか日本と同じような雰囲気のあるお寺だった。

▼サルナートの仏教寺院
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往復と観光しても2人で、450ルピー。
やはり、2000ルピーも払って昨日のツアーに乗らなくて良かったと改めて思った。

一通り回った上で、ガンジス川へと戻った。

夜明け時も結構な人がいたが、
昼間のガンジスにはもっと多くの人が集まっていた

沐浴する人、瞑想する人、ボートの勧誘する人、物をうる人、
洗濯している人、たっしょんしてる人、凧をあげる人、火葬場に集まる人、
何もしていない人、牛、ヤギ、犬、、、

▼瞑想する人。このあとチップの要求があるのだが、、、
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僕たちは、ガンジスの風に吹かれるべく、ガートを歩くことにした。

「ガンジス河でバタフライ」なんて、思ってもいたが、
予想外の寒さと予想通りの汚さを前に、断念。
水着も着て来たのに思い切れない、まだ未熟な自分を反省した。

夕陽を見て、夜のお祈りを見た後、宿を目指した。

宿の青年が100ルピーくらいで戻ってこれると言っていたので、
オートリクシャと交渉するも、「150よこせ」と言ってくる。

そんなに出す気もないので、インド人の友達が100と言っていた、と伝えると、
「それはサイクルリクシャの値段だ!時間もかかる。」と反論してくる。

そうか、サイクルリクシャか。
ちょうど、横にサイクルリクシャの運転手が来た。
100で行けるかと聞いたら、「行けるし、20分あれば着く」と言うので乗ることにした。

サイクルリクシャなら、もっと本当は安いのかもしれないが、
乗ったこともなかったし、予算内で帰れるならそれでよかった。

初めてのサイクルリクシャはなかなかスリリングだった。

物凄い交通量の中をすり抜けるように走って行く。
頑張って漕ぐが限界もあり、後ろからずっとクラクションがなる。
交差点では、ぶつかるのではないかと言う中を走り抜ける。
そんな中乗っている僕たちに、大丈夫だ心配するなと気にかけてくれる。

そのサイクルリクシャ職人の背中にとても心打たれた。

オートリクシャと違い、屋根もないので、気持ちいい夜風を浴びながら、
20分とちょっとで宿に辿り着いた。

あんなに頑張ってる職人的な姿を見せられると、チップも払いたくなるもので、
100ルピーに少し上乗せして支払うと、少し嬉しそうに笑い返してくれた。

「サイクルリキシャも、オートリクシャより悪いもんじゃないだろ」
そう、運転手は言っているようだった。

▼サイクルリキシャからの風景
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宿に着くと、青年が待っていた。

出発前に、自慢のマトンカレーを夕食にどうかと提案され、お願いしていたのだ。

部屋で待っていると、夕食を持ってやって来てくれた。

彼自身が腕を振るった一品は確かに美味しかった。

day13:2012年12月2日】バラナシでゆったりと

この日は久しぶりに何も予定がなかったため、
ゆっくりと朝の時間を過ごした。

朝ごはんを食べて、のんびりした後、
最後にもう一度ガンジス川へと繰り出すことにした。

メインのガートから散歩し、
昼飯を食べるため、ガイドブックに載っているカフェを目指した。

先日、サトナの駅で食べ損ねたマサラドーサを頼んでみたのだが、
失敗作なのか分からないが、再びイメージと違うものが出てきた。

「ここのマサラドーサはバラナシ1!」と、
ガイドブックに載っていたのだが、どうしたものだろうと思った。

もはや、
自分たちのイメージしているマサラドーサにいつ出逢えるかは、
このインドにいる以上、いつになるか分からなかった。

しかし、サブで頼んだチョウメンが予想外に僕たちの期待を超えた。

言ってみれば、ただの焼きそばなのだが、
カレー三昧な生活を送っている僕たちにはとても美味だった。

インドに行ったら、まずはカレー、だと思うが、
飽きたらチョウメンに流れるのが王道だ、と言うことに気付いたのが、
インドを離れる前日だったと言うのは残念なことだった。

▼この日のランチ、マサラドーサ?とチョウメン
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ガンジス川沿いは、前日同様、混沌とした有様だった。

何か川に水が注いでいるなと見てみると、
壁際でたっしょんポイントになっている。
そんな事にももはや驚かなくなっていた。

日本語が上手な客引きの少年に連れられ、お土産屋を覗いてみた。
ちょっとこいつは信頼できるかなと思ってみても、
結局は、「3個100ルピーでいい」と言って引き戻しておきながら、
実際、店に引き返してみると「6個で200ルピーじゃないとダメ」と言い出すので、
そんなやり口に買う気は失せ、店を出た。

本当に真面目に商売している人には可哀想な環境だ。

日が暮れる頃、ガンジス川ともお別れをして、ガートを離れた。

少し歩いて、この日はオートリクシャを拾って、宿に戻った。

降りる際に、がめつくチップを要求する運転手に、
嫁がきっぱりと「NO」と断っていた。

昨日の、サイクルリキシャの運転手の方が、よほど立派な仕事をしていた。

でも、地位的にはオートリキシャの運転手の方が上なのだろう。
「仕事」について、考えさせられながら、眠りについた。

day14:2012年12月3日】インド出国の日、嫁吠える

遂に、カウントダウンしていた、インド出国の日がやってきた。

しかし、インドに辟易していた嫁の表情が明るかったのは、
バス停に着くまでだった。

朝、宿泊先に迎えの車がやってきたが、
運転手は一昨日、振り返りもせずに別れたあの運転手だった。

嫌な感じはしつつも、
3泊お世話になったホームステイ先と惜別のお別れをした。

今朝迎えに来る運転手が、バスのチケットを渡してくれる事になっていたのだが、
道中、渡されたのはただの紙切れだった。

「バスのチケット2枚、この人たちにあげてください。」

▼疑惑の紙切れと運転手横顔
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この紙切れが果たして効果があるのか疑問だったが、
とにかく連れられてバス停に向かった。

バス停にはバスが3台ほど停まっていた。
あの大きいバスがいいね、などと話していたまではまだ平和だった。

僕たちは、こんな紙切れではなく、チケットをくれ、と運転手に伝えた。
すると、運転手は何やらバス会社の人と、会話をはじめた。

暫く、バス会社の室内で待っていると、突如、ホテルカードを取り出し、
「何かあったらこれがボスの連絡先だから、連絡をくれ」と言って帰ろうとする。

ん、どういう事だ?、チケットはどうした?と問い詰めても、反応が鈍い。

するとそこへ、中国人の女性がバス会社の人と駆け込んできた。

「あなた達も、ネパールに行くの?」と聞かれ、
そうだよ、と答えると、一息ついたのち、またバス会社の人と向き合った。

突然だった。
バス会社の人が、新聞を手に取ろうとした時、
中国人女性がその新聞を取り上げ、机に叩きつけたのだった。

どうやら、尋常ではない、という事は瞬時に伝わった。

「あなた新聞読んでる場合じゃないわよ!!」
「私は今日中にネパールに行きたいの!」
「どうやったら、ネパールにいけるか教えなさいよ!」

ん、どうも、話がおかしい。
ちょっと割って入って話を聞いてみると、
なんと、ネパール行きのバスはキャンセルになったとの事だった。

それまでは、他人事として考えていたが、
いきなり僕たちも当事者として巻き込まれる事になった。

中国人女性は再びバス会社の人に声を荒げていた。
「あんた達のビジネスのやり方はいつもこう。」
「そもそもバスなんて来なくて、他でお金を使わせるんでしょ」
「私はそんな手には乗らないわ」
「インド人は嘘しかつかない!!」
「騙してお金を巻き上げてたら、あなたは神に罰せられるわ。」
「あなたの神は誰?シバはあなたを絶対罰するわ。」

思いつく、ありとあらゆる言葉で罵倒していた。

ふと振り返ると、嫁も運転手を問い詰めていた。
「バスが出ないってどういうこと?」
「私たちが早く起きたのに意味ないじゃないの?」
「早くチケットよこしなさいよ。」
「お前、何逃げようとしてんだよ。」

そもそも、声を荒げて怒っている嫁には、出逢って以来、初めて遭遇した。

もともと、嫁は怒る時、だんまりを決め込み、怒りを伝えるタイプだ。
が、声を荒げて怒っている姿を見るのは初めてだった。

おぅおぅ。室内はどうも修羅場とかしてきた。
僕も闘いの輪に、加わる事にした。

「何かあったらボスに連絡くれじゃなくて、
ボスをここにすぐ連れて来いよ!」と言うと、
運転手はボスに電話をした上で、「オフィスにきて話そう、心配はいらない」と言う。
「心配いらないだ?何が心配いらねーんだよ、
オフィスにきてって言うか、ボスがこっちに来るべきだろ。」と再びの応戦。
「わかった」と運転手が言うので、来るまで待とうとすると、
ちょっと目を離した隙に、運転手は車でどっか行ってしまった。

あれは迎えに行ったのか、逃げたのか、しまったなぁと思いながらも、
連絡先はわかっているので、2人苛々しながら、バス会社の室内で待つ事にした。

嫁は今にも室内の神棚を破壊しそうな勢いで苛ついていた。

▼事件が起こった事務所と内装とバス会社の人
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ここはインドだ。
バスがネパールに行かないのは間違いなさそうだ。
とは言え、今日ネパールに行けないのも予定が狂ってしまう。
誰にどう交渉すれば、ネパール行きを達成できるだろうと、
必死に自分を落ち着かせつつ考えていた。

嫁の気分も落ち着かせようと、
「やっぱインドってすごいよね。」「また一つエピソード出来たね」と、
軽い感じで話しかけると、蔑視の眼差しで黙殺されたので、
再び思考の世界に戻る事にした。

依然として中国人女性とバス会社の人のバトルは続いていた。
バス会社の人が英語を理解していないのかもしれないが、
彼の受け答えが傍から見ても火に油を注いでいた。

「この写真はあなたのお爺さん?お爺さんはあなたに騙す事を教えたの?」
⇒「Yes!!」
「騙して金儲けをするのがいいって教わったの?」
⇒「Yes!!」

「別に返金はいらない!!ネパールに行く方法を教えて!」
⇒「ガバメントバスが出ているからそれに乗れ!」
「また、そんな事言って、そんなバスないんでしょ。
何時に、どこから出てるのか言いなさいよ!」
⇒「あっちだ!あっち!」
「あっちでわかるわけないでしょ。どこなの、連れて行きなさい!!」
⇒「200mあっちだと言っているだろ!」

バス会社の人はバス会社の人で、
「すわれ!お前は狂っている!」と声を荒げ始めていた。

2人のバトルは徐々に熱を増し、チラシも撒き散らし、
口だけじゃなく、手が伸びた時、
「いい加減に辞めなさい!!もうなんなの!」遂に、嫁が吠えた。

僕も間に割って入った。
中国人女性が味方で、バス会社の人が敵だと認識していた。

ちょっと待て、そもそもなんでキャンセルなんだ。改めてその理由を正すと、
「人数が、2人しか集まらなかった。5人が最小催行人数だ」と言う。
ん?中国人女性に僕たち2人、既に3人いるのに、2人ってどう言う事だ、と問うと
「お前らの予約なんて入ってない。そもそもお前らはなんだ」と言う。

「チケットは持ってるのか。持ってるなら見せろ!」と逆に向こうに攻め入られた。
いや、チケットは、旅行代理店がくれる事になっていて、、、
「お前らの予約は入ってないんだよ!!」

マジでか、少し混乱しつつも、状況は見えてきた。
敵だと考えていたバス会社の人を責める理由は、僕たちにはなさそうだった。

オープン発券とかがあるのかは不明だが、
結局は、旅行代理店が今日のチケットを抑えていなかった事が一番の原因のようだった。

バス会社の人からみれば、
「何でこいつらここで言い争ってんだ」と言うくらいだったのだろう。

しかし、ここまできたら、後にはひけない。
運転手も戻ってこない事だし、電話をしてみるしかない。

電話を貸せ!旅行代理店に電話をする!と言って、
バス会社の人から渋る電話を奪い取り、電話をかけた。

電話に出たボスは、
「君たちのバスはキャンセルになった。解決策を考えてるからまた掛け直す」と言う。

暫し、バス会社の室内で折り返しの電話を待つ事にした。

中国人女性は、もう1人の仲介の人が来て話し合いをした結果、
ガバメントバス乗り場まで連れて行ってもらう事になったようだ。

あなたたちどうする?と聞かれたが、
僕たちは電話を待たなくては始まらなさそうだったので、その場に残る事にし、
その女性と別れた。

ボスからの折り返しの電話は、「何とかするからオフィスで話そう」との事だった。
運転手があなたを迎えに行ったはずなんだけど、こっちに来いよ、と言っても、
「心配するな、何とかするから、オフィスで話そう」と答える。

最初はバス会社を離れたくないと思ってたのだが、
もはや、バス会社には責はなさそうなのでここにいる理由もなかった。
しかし、オフィスがどんな場所にあるかも分からないので、
直感的に絶対、オフィスには足を運びたくないと思った。
オフィスは嫌だから、泊まってた場所で話したいと伝え、合意し、迎えをよこす事にした。

迎えをだいぶ待った。
これ以上待つならまた電話しようと思ったぎりぎりに迎えはやって来た。
最初の運転手に加えてもう1人が乗っている。

「さぁオフィスに行こう!」
おいおい、さっき、宿泊先で話そうってなったんだよ!と伝えると、
ボスに連絡をとってくれ、宿泊先に向かう事になった。

相も変わらず、インドは一筋縄では行かない後味の悪さがある。

宿泊先に戻って来るとボスが待っていた。
「あなた達のバスはキャンセルになった。
でも心配する事はない、2つのオプションがある。」

とりあえず相手の出方を見る事にした。

「一つ、今晩の電車でゴーラクプルまで行って、そこからバスに乗る」
「二つ、一泊して、明日のバスに乗る」

「三つ、バス代金を返金する」

おいおい、2つじゃなかったのかよ、と思いながら、
そう言う事は、日本でも良くあるので聞く事にした。

「四つ、バラナシからカトマンズまで飛行機に乗る。」
「五つ、バスの代わりに今日の行程はタクシーで行く。」

「一つ目、二つ目は一日潰れるのでいいオプションとは言えない」
「四つ目は1人2万くらいかかるから高い。五つ目なら、それなりの値段だろう。」

僕たちとしては、今日行く事しか考えてないし、
自分たちに責がない中で、追加でお金を払うなんて事も考えられなかった。

ちなみに、5つ目のオプションは幾らになるんだ、と問うと、
「650キロの道のりでキロ当たり9ルピーだから、6000ルピー弱だ」と言う。
「バスの返金が2000あるから、4000ルピーでいいぞ」と、
あたかもサービスしてあげてるかの如く、話しかけてくる。

中国人が言うように、はなからキャンセル狙いで、
この4000ルピーを儲けに来てるんじゃないかとすら思えてくる。

こうなったら戦うしかない。

「バスの返金はなんで2000なんだ。
うちらは手数料も加えて高い金も払ってんだ!」
「そもそもおたくが予約してなかったのに、
なんでうちらがお金払わないといけないんだ!」

そうまくし立てると、それまで穏やかだったボスも苛立ちが募ってきた。

「俺はお前ら以外にもたくさん客がいるんだ。
お前らにだけかまっている暇はない。」
「こっちだってデリーの代理店から実費しかもらってない。
いくら払ってるかなんて知ったこっちゃない。」

この人を苛立たせるのは得策ではないと思い、矛先を変えることにした。

「僕たちはあなたを責めるつもりはない。
デリーの旅行代理店に連絡をして欲しい」

そう伝え、ボスからデリーの旅行代理店のRajに電話をしてもらった。

「電話で話したが、3000でいい。残りはこっちが負担する。」

だから、なんでこっちが払わないといけないんだと思い、
直接、電話で話すべく、再度、Rajに電話をかけてもらった。

なんでキャンセルになったのか等々経緯を直接話し、
最終的には、全額旅行代理店負担で、国境まで送って行ってくれるよう話をつけた。

「手続きのためオフィスまで来てくれ」
目の前のボスも、渋々了解したと言う感じだった。

これで、無事、今日中に国境を超えることが出来ることになった。

2度目の宿泊先とのお別れ時も、
宿のマネージャーは最後まで心配そうに手を振って見送ってくれていた。

あの人はいい人だ、と信頼していた嫁も見えなくなるまで振り返していた。

オフィスで、国境の街からカトマンズまでのバスチケットを受け取った。

ボスは、最後まで捨て台詞的に、
「今回の件で20000ルピーうちは損した」とぐちぐち言っていた。

さっきは6000ルピーを提示して来たのに、
何時の間に20000ルピーまで膨れ上がったんだと思ったが、
もはや、突っ込む気力もなかった。

無事にオフィスを離れ、タクシーで国境の街スノウリまで出発した。

スノウリまでの道のりは悪路ながらも順調だった。

国境付近で、インチキ両替屋に連れて行かれたが、結局両替はせず、
連れてったインド人に「they cheat us!!」と伝えると頭を抱えていた。

こうして、晴れて僕たちはインドを出国し、遂にネパール入国を果たした。

▼インド・ネパール間の国境
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バスチケットに付随している国境付近のホテルにチェックインすると、
ホテル内のツアーデスクで、カトマンズでのホテルを勧められた。

一泊目は既に取ってるし、支払いは完了している!と言ってるのに、
「バス停から街中までは8キロ位あって遠い」「タクシーも走っていない」
「このホテルなら無料で迎えに来てくれる」と強引な勧誘は続いた。

既に予約してるし、バス停にはタクシーくらいいるだろうと思い、
勧誘を振り切り、部屋に向かった。

ホテルの食堂で、10日以上ぶりのビールでネパール入国の乾杯をした。

国境の街は、まだ、インドの風が漂っているようだった。