365日旅日記。(ネパール編)

ぜひ、ワンクリックお願いします→にほんブログ村 旅行ブログ 世界一周へ

365日旅日記。(ネパール編:2012年12月4日-22日)
day15:2012年12月4日】インドより合いそうなネパールの風!

ネパールとインドはなぜか、15分の時差がある。
インド時間の7:00、ネパール時間7:15に、バスは国境からカトマンズに向けて出発した。

バスは思ったより小さく、ボロかった。

乗車早々、荷物は屋根の上にあげられてしまい、
荷物代として200ルピーを請求された。

払う必要があるのか分からないが、
大きめの声でみんな払っているのか、と聞いてもそうだと言うので、
大人しくインドルピーで支払うことにした。

インドルピーで130だったが、120しかないと言うと、
「それでいいい」と言われた。

もともと必要のないお金だったのだろう。

国境付近だから、まだインドの風が吹いているのか、
ネパールもそう言う国なのか、この時点では分からなかった。

上に載せられた荷物が不安で、休憩ごとに確認していたが、
バスは、不定期に人を載せ、降ろし、目的地カトマンズへと向かっていた。

時折、水やお菓子を持った人が車内に乗り込んで営業をしているのが、
日本では見慣れない光景で新鮮だった。

▼バスの中に来る物売り
IMGP0614.JPG

一日中車に揺られ、夕方頃にバスは街に差し掛かった。

どうも街の看板を見るとカトマンズに入っているようだが、
どこで降りればいいのかが分からない。

乗客は皆、思い思いのところで勝手に降りて行く。

昨晩、ホテルのツアーデスクで言われたように、
終着点が中心街から遠いのであれば、なるべく近いところで降りたかった。

道中、バスの前後を行ったり来たりしていた現地人と思われる2人組に、
タメルに行きたいのだけど、と尋ねてみると、
「降りる場所が来たら教えてあげるよ」と言われたので、大人しく待ってみることにした。

暫くすると、「ここだ」と言うので、その場所で降りることにした。
同じ場所で降りたその2人組は、
「この道を真っ直ぐ行けば1キロ位でタメルだよ」と親切に教えてくれた。

表情からして、インドとネパールでは、少し違う印象を受けた。

1キロほど歩き、「タメル」に辿り着いたはいいが、
そのどこに予約していたゲストハウスがあるか分からない。

インドから予約をしたため、地図をプリントアウトすることも出来てないし、
手がかりになるのは、iPhoneでスクリーンコピーした簡単な地図と住所のみだった。

少し歩いては道を聞き、またもう少し歩いては、簡単な地図を見せながら道を聞き、
なんとか、予約していたゲストハウスまで辿り着くことが出来た。

▼タメルで宿泊していたsiesta guest house
IMGP6492.JPG

チェックインしていると、
宿のオーナーと言う人が、流暢な日本語で話しかけてくる。

「日本語が話せる現地人」に少し警戒しながらも、
道中見かけたツアー会社もこのオーナーが経営しているということで、
事前にネットでの評判も見ていたこともあり、少し話を聞くことにした。

もはやスリナガルには行かない方向で固まっていた僕たちは、
このネパールのヒマラヤでトレッキングをしようと考えていた。

荷物をゲストハウスに置き、ツアー会社のオフィスに行くと、
入り口にいたネパール人の男性も日本語で出迎えてくれた。
どうも、日本語を話せるスタッフを揃え、
日本人専門にサービスを提供している会社のようだ。

オフィス内に貼られていたヒマラヤの写真はどれもとても魅力的だった。

1週間のコースだと、プーンヒル(3210m)まで行くコース、
2週間のコースだと、エベレストベースキャンプ(5510m)か
アンナプルナベースキャンプ(4130m)まで行くコースが、メジャーなようだった。

期間的には当初、1週間程度を考えていたが、
どうせなら登ったことのある日本の最高峰、富士山(3663m)を超えたいという一心で、
心は2週間のコースに惹かれていった。

宿のオーナー兼ツアー会社の社長のモウサムさんは、
丁寧に色々説明してくれた。

各コースの値段も聞き、アンナプルナベースキャンプに行く方向でほぼ心は固まっていったが、
インドでの怪しい旅行代理店の反省もあり、即決は避け、オフィスを出ることにした。

20時を回り、あたりはすっかり暗くなっていた。

タメルでは多くの日本料理屋が目についた。
インドでカレー疲れした僕たちは、
モウサムさんが勧めてくれた日本料理屋、「絆」に足を延ばした。

天丼にカツ丼、味噌汁ついて400円弱というコストパフォーマンス。

日本のダシを持って来て使っているというのが、この店の特徴らしい。

僕たちが訪問した際は開店したばかりだったということもあり、
たまたま、オーナーの方もいらっしゃったのだが、オーナーは日本人だった。
このお店は、日本人オーナーが出資して、ネパール人の青年が店を開いたのだという。

面白いと思ったのは、2人の出逢いのきっかけは、
トレッキングの顧客とガイドという関係だったという。

そんなことがキッカケで、
トレッキングに来た日本人はガイドであったネパール人を日本に呼び、
日本料理を教え、ネパールでの日本料理屋開店に繋がっていくというのだから、
縁というのものはとても不思議で大事なものだと思う。

そんな開店までのエピソードを一つのスパイスに食べた久々の日本食は、
とても美味しかった。

宿に帰り、荷物を部屋に運んだ。
一泊2人分の朝食付きで1400円程度の部屋だが、中々落ち着けそうな部屋だった。

インドではなかったスーパーのようなものを街中で見つけ、
テンション上がってビールを買って来ていたものの、
この日は疲れていたのか、栓を開ける前に眠りに着いてしまった。

day16:2012年12月5日】ビザを延長!2週間のトレッキングへ

どこで申し込むかはさておき、2週間のトレッキングへと心が固まっていた僕たちは、
インドの怪しいツアーからおさらばすべく、
朝起きてすぐ、デリーの旅行代理店へのメールを打った。

「ネパールからデリーに戻る飛行機を2週間変更して欲しい。
あと、ツアー自体、最初の話と違う部分もあるし、
スリナガルでのホテル名も教えてくれないので、その後の旅程はキャンセルしたい。」

メールを打った後、朝食を食べ、チャイを飲んでると、
オーナーのモウサムさんがやって来た。

ネットでモウサムさんのツアー会社の評判や価格の相場を調べる中で、
悪くなさそうだと言うことは分かってきたが、まだツアー自体は決めかねていた。

「チャイはお代わり自由ですから幾らでも飲んでください」と言われ、
お言葉に甘え、チャイを何杯も頂きながら、他愛もない雑談をしていた。

特に印象に残ったのは、「made in JAPAN」のネパールでの影響力だった。
「日本の会社が作った」というのが重要ではなく、
「日本で作った」というのが今でもとても価値があり、値段が数倍にもなるという。

モウサムさんの時計も「made in JAPAN」だった。
一方で、僕が持っていたカシオの時計は「made in THAILAND」だった。
たとえカシオといえど、それだと、意味がないらしい。

日本メーカーの製品が海外で競争力を失う中、
日本で作られている事に価値を感じてくれる人がいる事は、
嬉しかったし、面白い受け止められ方だと思った。

昼頃までのんびりと雑談していたが、
その後、床屋を紹介してもらい、インドでなし得なかった散髪を試みた。

価格は100ルピー(約100円)だと言う。

100円の散髪ってどんなもんだと不安もあったが、
こんな感じと雑誌で指差して伝えると、
あとは、ザクっとした櫛とハサミとすきバサミを使ってあっという間に散髪は終了した。

シャンプーどころか、洗い流すことすらない。
ただ、日本と繊細さこそ違えど、100円散髪、悪くなかった。

この日は特に予定のない僕たちだったが、2週間のトレッキングに旅立つとなると、
一つやらなくてはいけないのはビザの延長だった。

当初そこまで長くネパールに滞在する予定のなかった僕たちは
インドーネパールの国境で15日間のビザを取得していた。

しかし、2週間のトレッキングに行くとなると期間を超過してしまう。

モウサムさんに相談すると、
1人日本語も喋れる人をアテンドしてくれたので、
散髪後に、ビザの延長申請に向かった。

申請書類を記載し、窓口に行くと、
「これからおやつの時間だからその後で」と言う。

暫くすると「400ルピーくれれば早くやってやるけどどうだ」と言ってくる。

一緒に着いてきてくれた人を介してやり取りをしていたが、
どうも、いつもここはそんな塩梅らしい。

途上国ではよく賄賂云々の話を聞くが似たようなものなのだろう。

別に時間的に焦ってもいないので、待つことにした。

「おやつの時間」が終わり、書類が受理されると、
2時間後位に受領の時間を指定されたので、再び待つことにした。

周りには特に観光できる場所がないので、建物で待っていると、
指定時刻の30分前には延長したビザの貼られたパスポートを受け取ることが出来た。

延長の手数料をルピーで払って、無事、ビザの延長手続きは終了した。

▼ビザの代金はドルで指定されているが、実際の支払いはルピーのみ
(近くの両替屋はレートが悪いので要注意)
IMGP0628.JPG

これで、いつでも2週間のトレッキングに旅立つ事ができる。
しかし、予想外にビザの延長に時間がかかってしまったため、
タメルに戻った頃にはすでに日が暮れかかっていた。

他のツアー会社も覗いてみようかとも思っていたが、
明日からトレッキングに出たいと思っていた自分たちは、
ネットでの口コミと相場を踏まえ、モウサムさんのツアー会社へと申込に向かった。

ゲストハウスと経営が一緒のため、
ここで申し込めば、当初タメルで4連泊でいれていた予約を、
2泊、2泊で分割させてくれるというのも大きかった。

あとは、復路のデリーまでの飛行機だったが、
インドの旅行代理店からは、朝打ったメールに対し、「連絡をくれ」と返信が来ていた。

ツアー会社の電話を借り、かけてみると、この期に及んで、
変更は自由にできると言っていたにも関わらず、
「変更には手数料は1800ルピーがかかる」などと抜かしてくる。

「自分でやれば無料だから自分でやるといい」など言ってくるが、
既に、こちらは航空会社に連絡し、代理店経由でないと対応出来ない旨確認しているのに、
どこまでも感じの悪い代理店だ。

押し問答の結果、
「1回だけこっちで変更の対応するが、それ以上は出来ない」
「バラナシからの車の移動で既に20000ルピー損してるんだ」
などという、また意味のわからない捨て台詞を浴びながらも、
無料で変更してもらえることとなった。

これで無事、2週間のトレッキングに行く手はずは整った。

明朝から出発することとし、
この晩、手袋や帽子、レンタルのダウンジャケットなどを街で調達した。

街中にはノースフェースのダウンジャケットが溢れているが、
ほぼ全てが偽物のようだった。

▼アンナプルナベースキャンプのトレッキングスケジュール
1日目:カトマンズ→(バス)→ポカラ
2日目:ポカラ→(タクシー)→ナヤプル→ヒレ
3日目:ヒレ→ゴレパニ
4日目:ゴレパニ→タダパニ
5日目:タダパニ→チョムルン
6日目:チョムルン→ヒマラヤ
7日目:ヒマラヤ→アンナプルナベースキャンプ(ABC)
8日目:アンナプルナベースキャンプ(ABC)→バンブー
9日目:バンブー→ジヌー
10日目:ジヌー→トルカ
11日目:トルカ→ダンプス
12日目:ダンプス→サランコッタ
13日目:サランコッタ→ポカラ
14日目:ポカラ→(バス)→カトマンズ

day17:2012年12月6日】いざポカラへ

トレッキングに向け、ポカラ行きのバスに乗るため、5:30に起きた。

いざ、準備しようと電気のスイッチを押すが、つかない。
このタイミングで、ネパール特産の停電だ。

海外にくると何気ない日本の素晴らしさが見えてくる。

日の出は6:30。この旅初めてのヘッドライトの活躍する時がきた。
まだ暗い部屋の中でヘッドライトの灯りを頼りにパッキングし、
日の出とほぼ時を同じくして、トレッキングガイドと共にゲストハウスを出発した。

ポカラ行きのバスは、カトマンズに来たバスに比べ、キレイで新しかった。

座席につき出発を待っていると、
ガイドが知り合いに向け小指を立て、合図を送り、
少し笑いながら、バスの外に出て行った。

ガイドは、22歳のエムビという名の青年だった。

どこの国も20前後の青年の興味の対象は同じなのだなと微笑ましく眺めていた。

バスが出発して間もなく、僕たちは眠りについた。
14時過ぎにポカラに到着するまで、
二度の休憩で、朝食、昼食を食べた以外、僕たちはずっと眠っていた。

これだけの睡眠時間を欲するようになると、
社会復帰が危ぶまれるが、その時はその時だ。
きっと体はすぐ慣れる。

ポカラの街は、カトマンズから標高を下って来ただけあって少し暖かかった。
そして、ヒマラヤの山々が後ろに控えていた。

あの山が、明日からの目的地かと考えると心踊った。

明日からの本格的なトレッキング開始を前に、
この日は、ペワ湖の周辺を散歩したり、湖近くのお土産屋を覗いたりして過ごした。

ポカラは、カトマンズに比べて、物価は少し高いようだが、
落ち着いた雰囲気で過ごしやすい軽井沢のようなリゾート地だった。

宿で、トレッキングに持って行く荷物と、宿に置いて行く荷物の仕分けをし、
翌日のトレッキングに備えた。

day18:2012年12月7日】いざヒマラヤの山中へ

朝起きて、バックパック一つ、サブバック一つを抱え、フロントに向かった。

なるべくトレッキングの負荷を軽くするために、
PCを始め、道中不要と思われる荷物を宿に置いて行くことにした。

8時半にタクシーで宿を出発し、
トレッキングのスタート地点、ナヤプルへと向かった。

ナヤプルは、ネパール語で「新しい橋」という意味だという説明を受けた。

別に新しくもない橋がそこにはかかっていたが、
なかなかにいい名前じゃないかと思っていると、嫁のメモ書きには「新橋」の文字。

サラリーマン時代、友達と集まることの多かった「新橋」だが、
世間一般であまり「新橋」ってお洒落なイメージはないと思う。

でも少し違う角度から見てみると悪い名前じゃない。

あぁ新橋でビール飲みたい。

10時過ぎに遂にナヤプルを出発して僕たちのトレッキングは始まった。

遠方にアンナプルナ連峰、マチャプチュレが綺麗に見えた。
僕たちの目的地はあのマチャプチュレの近く、キレイな景色に足取りは軽かった。

道はなだらかな登り坂だった。

すれ違う地元民、トレッキング客と「ナマステ」と挨拶を交わし、登っていく。
挨拶を交わすあたりは日本の登山と通じるものがある。

道には人だけでなく、水牛もいれば、モノを運ぶロバもいる。

お蔭で、たまに家畜の糞尿の匂ひも漂ってくるのだが、
さらに人間の糞尿の匂ひも漂ってきたインドからきた僕たちには、
さほどそれが気にならなかった。といえば、嘘になるが、まだマシだった。

歩き始め2時間ほどでついた山小屋で、昼食を取ることになった。

あまりお腹の空いていなかった僕は、
オニオンスープと、フルーツ入りチョコレートプディングを頼んだ。

これが、予想外に美味しくなかった。というか不味かった。

まず、オニオンスープは、確かに「オニオン」の「スープ」なのだが、
色がついてる割に、スープの味はほぼお湯で、茹でた味なしオニオンだった。

そして、チョコレートプディングは、冷たい「プリン」を想像していたのだが、
出てきたのは、あったかいチョコレート色の流動体だった。
これまた色がついている割に、味はなく、葛湯的な食感だった。

生来「食べ物を残すな!」と言われ育った僕は、
これまで、多少無理してでも皿を空けてきたが、
今回は食欲もあまりなかったこともあり、さすがに残してしまった。

料理の問題か、この山小屋の問題かは定かではないが、
これからの山小屋生活において、
オニオンスープもチョコレートプディングもこの一回でお蔵入りとなった。

午後のトレッキングも穏やかな道のりだった。

途中、みかんを買って食べたりしながら、山道をのんびり登って行くと、
今日の宿泊地のヒレに到着した。

早速、ホットシャワーを浴びたが、まだ、15時前後だった。

夕食までは、まだ時間もあったので、
プルニマという名の山小屋の女性とエムビを交えて会話をしていると、
嫁がグルン族というネパールの種族の衣装を着せられたり、
いつしか、プルニマによるネパール語講座が始まっていた。

「ネパール語は36個の文字があって、それぞれが12種類あるの」

おぉそれは実に難しそうだと思っていると、プルニマ先生は続けた。

「36個書いてあげるから、ノート貸して」
「36個がこれで、12種類は、例えばこの文字だと・・・」

スラスラとノートに書かれていくネパール文字はどうも単なる記号にしか見えない。
韓国のハングルと同じようなモノなのだろう。

「聞いてる?あと35個の文字について、12種類書いてご覧なさい!」

なんと、いきなりの宿題を出され、
そこから、夕食までの間、よく分からない記号の模写の時間となった。

結局、途中でタイムアップとなったし、文字については覚えられなかったが、
ネパール語の体系がわかったのと、
「あなたの名前は?」「私は日本人です」「私の名前はxxです」と言った
簡単なフレーズをこの場で覚えることが出来たのは大変助かった。

海外に行って大切なのは、その国の言葉を使うことだと思う。

日本にきた外国人が「ありがとうーございまーす!」とか
日本語を使っていると妙に好感を持つというか、嬉しくなるのと同じだと思う。

昼食時に、山小屋の食事に不安を覚えていたが、
このヒレの山小屋で食べた夕食のダルバートは美味しかったので安心した。

時間も7時を過ぎればあたりは真っ暗になった。

曇っていて、星を見ることも出来ない。

自室に戻ったが、何もすることもないので、
早々に眠りについた。

day19:2012年12月8日】8時間に渡る1300mの登り

初めて、山小屋での朝を迎えた。

少し冷んやりするが、
早く寝て十分な睡眠をとったこともあり、爽やかな朝だった。

ヒレの山小屋が標高1500mに対し、
この日目指すゴレパニは標高2800mに位置していた。

出発地点のナヤプルの標高が1200mで、
目的地のアンナプルナベースキャンプの標高が4130mということを考えると、
1日で1300m登るこの日が大変そうだということは予定表を見た時に分かっていた。

「トースト」「卵」「お茶」と言ういつもの朝食を食べ、
朝8時過ぎ、勝負の一日が始まった。

開始早々、少し歩いたら、ひたすらの石の階段が続いた。
急な上に、一段一段が大きい。

少し登ると足はパンパンになるし、息もあがるので、度々休憩をとった。

見ると周りのトレッキング客も同じ状況のため、
相手の休憩中に抜かすと、こちらの休憩中に抜かれ、
何度も何度も顔を合わせる励ましながら登ると言う状況が展開された。

「どこの国の方ですか?」
「シンガポールです。そちらは?」
「私たちは日本です。」
「お互い頑張りましょう」

声をかける相手がいると言うのは、力になった。

朝晩は冷えるが、陽があたり、登っている最中は暖かい。
短パン、半袖姿で汗をかきながら、ひたすら上を目指した。

昼食を取る山小屋に着いた頃にはヘトヘトになっていた。

午後は、緩急ある森の中の道を進んで行った。

午前中ですでにパンパンになった足には、
急で長い山道を迎えると度々の休憩が必要となった。

徐々に太陽が陰り、肌寒くなってきた中、
やっとのことでゴレパニの村に着いた!と思ったら、
僕たちの宿は、そこからさらに100mの石段を登ると言う最後の試練が待ち受けたいた。

村の周りは道が整備されている。
その分、幸か不幸か、辛い急な石段だったりするようだ。

16時過ぎ、出発から8時間を経て、ゴレパニの山小屋に到着した。

ただでさえ標高が1300mも登った上に、霧か雲で陽が陰っていることもあり、
気温は10度位下がったように感じ、とても寒かった。

エムビが気を利かせて、
「一番いい景色の部屋を抑えてもらったから!」と言ってくれていたが、
部屋からの山々の景色は真っ白で何も見えなかった。

到着後、ホットシャワーを浴び、
湯冷めしないようにとラウンジにあった暖炉で暖をとった。

欧米人と欧米人夫妻が会話をしていたが、会話の輪には入れず、
夕食を食べた後、部屋に行き、この日も早々に眠りについた。

早寝の理由は、長時間のトレッキングで疲れていたから、とか、
明日の朝が早いからというのももちろんあったが、
単純に山小屋の夜はすることがないというのが一番だった。

day20:2012年12月9日】早起きするも雲の中のアンナプルナ

ゴレパニの朝は早かった。

標高3210mのプーンヒルから日の出を見るために、朝5時前に起き、
5時半にヘッドランプをつけてプーンヒルに向けて出発した。

荷物は宿に置いてきたので、出発当初は身軽だった。
昨日の筋肉痛も心配だったが、まったく足に痛みはなく快調だった。

しかし、寝起きの400m登りは、なかなかハードで、
途中、小休憩を挟みながらの早朝トレッキングとなった。

あたりが徐々に明るくなってきた中、
日の出の時間の6時半ちょっと前に到着したプーンヒルは、
日の出目当ての大勢の観光客で溢れていた。

が、絶景だと謳われるプーンヒルからのアンナプルナ連峰は完全に雲の中だった。
もちろん、日の出が見えるはずもなかった。

IMGP6675.JPG

展望台に登ってみるが、当然改善の余地なく、あたりは真っ白。
集まっている観光客を見下ろしながら、気分は沈んできた。

標高3210mの早朝、展望台の階段も凍っているような気温だった。
帽子に手袋、ダウンを着ていても、その寒さは、身体の芯に響いてきた。
おまけに400mの登りで軽くかいた汗が、ここにきて急に冷えてきた。

朝一の運動と寒さで横にいた嫁も見るからに元気を失っている。

これ以上ここにいてもしょうがないし、帰ろうかと思ったその時、
別の観光客のガイドが叫ぶ声が聞こえた。

「カモンマイフレンド!」

見ると雲の切れ間から、アンナプルナサウスの尖峰が顔を覗かせていた。

「おぉ!!」

観光客から一斉に歓声というか、どよめきが起こった。

IMGP6694.JPG

一瞬にして、あたりは記念撮影の会場と化し、温かい空気が場を包んだ。
一部しか見えないのだが、冷え切った身体は自然と元気を取り戻して行った。

一通り僕たちも記念撮影を終えた後、
朝食を食べるため、山小屋までの帰路に着いた。

400m登ってきた道を下る途中、しっかり朝日も拝むことが出来た。
いい一日の始まりだ。

IMGP0700.JPG

朝食をとった後、9時過ぎに、ゴレパニの山小屋を出発した。

今日目指すタダパニは標高2680mと、
2800mのゴレパニから下る場所に位置しているようなので、気持ち的には楽だった。

せっかく4130mを目指すのだから、
下らずに登って欲しいところだが、自然の起伏だから止むを得ない。

しかし、すごい緩やかに下る、という理想的な道筋を描いていたが、
実際には、登っては下り、登っては下るという、
表面上の数字からではわからない行程だった。

それでも、道中、完全に雲がきれたアンナプルナ連峰の絶景が、
溜まる疲労を和らげてくれ、僕らの歩は一歩一歩と前へ進んだ。

IMGP6712.JPG

この日は早朝からのトレッキングして疲労が溜まるということもあり、
昼食を挟んで、14時過ぎには、宿泊地点のタダパニの山小屋に到着した。

この日も、エムビは、
「絶景の部屋を抑えたよ!」と言ってくれていたが、
肝心要の山々は午後に入る頃には雲の中に姿を隠していた。

部屋に荷物をおいたのち、暖炉にあたるためダイニングへと向かった。

何をするでもない、何を話すでもないが、
ただただ、暖炉にあたり、時間を過ごしていた。

欧米人が外にあるシャワーを浴び、山小屋に戻ってくる姿がみえたが、
ホットシャワーは有料、かつ、湯冷めの心配もあったため、
この日は身体を拭いてやり過ごすことにした。

17時を過ぎ、陽は沈み徐々に室内は暗くなってきたが、誰も電気をつけない。

停電が特産品のネパールにおける節電かと思っていたが、
18時を過ぎ、真っ暗になった頃、山小屋の人がろうそくを持ってきた時に、
節電ではなく、まさに停電だということを知った。

しかも、そもそも電気を村に引っ張ってくる線に問題があるようで、
あと数日間停電とのことだった。

停電が特産のネパールでは大抵自家発電を各箇所で保有しているため、
これまで、ご飯を食べる時に電気がないということはなかったが、
ここにきて、ろうそくの灯りで夕食をいただく事となった。

IMGP0729.JPG

逆にイメージしていた山小屋生活に近くなった気がした。

この日も例に違わず、夕食を食べたのち、8時を前に就寝した。

day21:2012年12月10日】もの凄い筋肉痛の始まり

朝目覚めると、
ふくらはぎから太腿にかけて、もの凄い筋肉痛だった。

思い返すと、昨日もなかなかなトレッキングではあったけど、
きっと一昨日の1300m登った影響が大きいように感じた。

年齡も30近くになると、なぜだか分からないが、筋肉痛が翌日に来なくなる。
よく言われている事ではあるが、実際そうなってみると、なぜだか不思議なモノだ。

足を引きずりながらドアを開けると、目の前には絶景が拡がっていた。
筋肉痛はひどいが、頑張って前に進もうと思わせてくれる風景だった。

IMGP0733.JPG

朝食を食べ、いざ出発という時に、
宿の女性から、「あなたたち恋人?夫婦?」と聞かれた。

嫁です、と答えると、「綺麗な奥さんね」との一言。

嫁は、筋肉痛も特にないようだったが、
舞い上がって、さらに疲れが吹き飛んだ感じだった。

嫁の機嫌がいいことは、世界平和と同じ位、重要だ。

この日もいい一日の始まりだ。

この日目指すのは、標高2200mに位置するチョムルンだ。
2680mだったタダパニから更に下ることになる。

これまた、理想的な緩やかな下りであることを祈っていたが、
現実と理想は程遠く、一旦1900m付近まで下り、また登るという道程だった。

道中あちこちで、がけ崩れのあとがあったが、
エムビに聞くと、たとえ道が閉ざされても1日で新しい道を作るらしい。

道は生活に重要なパイプラインだから、
がけ崩れのあとは村の人が総出で道を治しにかかるとのこと。
1日というスピードに驚いた。

また、ネパールの話で驚いたのは、
ネパールでは、5000m以上を「山」というが、それ以下は「丘」と言うらしい。

これでは、日本はすべてが「丘」になってしまうが、
8000m級の山々を抱えるネパールならではだなと感じ、面白かった。

そんな他愛もない話をしながら、
この日も下りが中心だったこともあり、14時手前には目的地のチョムルンに到着した。

▼チョムルンの山小屋からの風景
IMGP6807.JPG

その後も、山小屋でネパール人の恋愛事情などを聞きながら、
食事の時間まで過ごし、早めの夕食を食べたのち、早々に就寝した。

ネパールではバイクがあればモテるらしい。

そして、ネパールでは、小指は女性ではなく、トイレを指すようで、
カトマンズからポカラ行きのバスでエムビが友達に送ってた合図は、
単に、便所に行っただけと言う全く微笑ましくない状況だったと言うことがわかった。

day22:2012年12月11日】2900mの山小屋で発熱

朝起きると、相変わらずの筋肉痛だった。

昨晩、エムビから「筋肉痛に効くよ」と言われ、
タイガーバームのようなネパールの薬をもらい、塗ってマッサージして寝たのだが、
あまり改善は見られなかった。

もはやこれからも歩き続ける日々が続くことを考えると、
最後までこの筋肉痛とは付き合っていかなくてはならなさそうだった。

でも、落ち着いて考えてみると、
インドに比べてとっても平和な日々を送っていた。

「インドは何もしなくても話のネタがやってきたけど、何だかネパールって平和だよね」
なんて嫁に軽口叩いたりしていた。

筋肉痛程度ですんでいたこの日の朝までは、確かに平和だった。

いつも通り朝食を取り、
この日は、標高2900mのヒマラヤを目指し出発した。

この日も、まずは1900m位まで下ってからの登りという行程だった。

8時に出発した僕たちは、12時にやっとこさ標高2300mのバンブーに着いた。

食欲旺盛な嫁を横目に、僕はあまり食欲がなくなっていた。
あまりその時は深く考えず、何とか昼食を口にし、1時過ぎに午後の行程を開始した。

通過地点のドバンまでは快調だったが、その後完全に足取りは重くなった。

それでも足を進めていたのが、
エムビが「ここ登ればつきます。頑張りましょう」と言ったのに、
「ここ」を登っても目的地がまだ先だった、という瞬間をきっかけに、
どこか緊張の糸が切れてしまった。

前を行く嫁を追うため足は前に運ぶのだが、
目的地を直前に、手は冷え、顔は熱っぽくなってきていた。

場所は標高2900m、完全に雲の中に入り陽はあたらず、気温も下がっていた。

やっとのことでヒマラヤの山小屋に到着した。

外の机に座っていたフランス人の青年が、
「コーヒー一緒にどう?」と誘ってきてくれたので、有難く頂くことにしたが、
帽子に手袋、ダウンを着て、あったかい飲み物を飲んでも手の震えがとまらない。

何かおかしいな、そう思ってしまったのが、発熱への第一歩だったのだと思う。

その後、山小屋の中に入り、寒さをしのぎつつ、ストレッチをしていたが、
まったく食欲がわいてこないどころか、顔だけどんどん熱っぽくなってきた。

「高山病とか大丈夫?」

道中追い抜かれ、山小屋で一緒になった日本人の方が、声をかけてきてくれた。

その方は、エベレストベースキャンプまで行き、
今度は、アンナプルナのベースキャンプを目指していると言う。

「いきなり高地にくると、高山病になりやすいから、水分摂って気をつけてね」

これは、いわゆる高山病なのだろうか、とも思ったが、
3日前に同じ標高のゴレパニに滞在した時は何ともなかったし、
富士山登った時も何もなかったので、これは単なる熱だと言うのが自己診断だった。

とりあえず何も食べないのもまずいと思い、頼むには頼んだが箸は進まない。
スープしか喉を通らない。

普段、熱が出た時は、
ポカリとリポビタンDと葛根湯を飲んであったかくして寝る、と言うのが、
快復への王道だったのだが、この山の中にはどれ一つ見当たらなかった。

それどころか、筋肉痛になった時に、そのまま風邪をひき、
関節痛を伴った高熱を発症するというのも逆によくあるパターンだった。

さて、どうしよう。
嫁に打ち明けるべきか、隠しておくべきか。

この山の中でこれ以上悪化したらどうなるだろう。
このまま先に進むべきか、大事をとって休養するべきなのか。

トレッキングの行程は詰まっていたが、
あとの行程を短縮することは可能だったので、休養も一つの選択肢だった。

どちらにしろ、隠しておいても、元気に振る舞えなさそうだし、
何かあった時により迷惑をかけてしまいそうだったので、嫁に相談した。

「ね、熱っぽい。。。」
「誰が?」
「俺が。。。」
「まじ?」

結局、その後の協議の結果、あったかくして早く休んで様子をみることにした。

食事が終わった頃、高山病を心配してくれた方が声をかけてきてくれた。

「旦那さん、使う予定のない湿布持ってるんだけどいる?筋肉痛辛そうだからさ」

非常に有難い申し出だった。
断る理由はどこにもなく、有難く頂くことにした。

その晩は、寝袋を引っ張り出し、その上から毛布をかけ、
暖パン、プレミアム
ダウン、帽子、手袋、ダウンジャケットと万全に暖をとった。

頂いた湿布を残っている限りふくらはぎに貼り、
ネパールの薬で太腿をマッサージをしたのち、寝る体制に入った。

眠りにつこうとしている中、
もらった湿布がふくらはぎにとても効いているのが良くわかった。

これは何とかなるんじゃないか、少し明るい気持ちで眠りについた。

day23:2012年12月12日】まさかの降雪に見舞われながらも、前へ

真夜中にふと目が覚めた。

相当、着込んでいたこともあり、軽く汗ばんでいた。

少し、頭を動かしてみると、だいぶ軽くなっていた。
どうやら、熱は今は落ち着いているようだ。

加えて、寝袋の中で足を動かしてみると、
湿布のお蔭でふくらはぎの筋肉痛もだいぶ和らいでいた。

これは、大丈夫そうだ。

僕は再び眠りにつき、朝がくるのを待った。

明るくなって目覚めると、熱は下がり、
体調はいくばくか快復していた。

木製のドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。
標高2900mの朝は寒い。

荷物をまとめて、朝食を取るダイニングに向かおうと、
再び、ドアを開けるとあたりは雪が舞い、うっすら雪化粧がされていた。

まじか。

しばし様子を見ていると、止む様子はなく、
むしろ雪は強くなり、あっという間に、あたりは真っ白になっていった。

IMGP6843.JPG

嫁は、これから先に進めないのではと心配していた。
加えて、行けなかったら、ツアー代金は戻ってくるのかな、と抜け目なく、
気を配っていた。

朝食を食べながら、嫁とエムビと今後の予定について話した。

エムビ曰く、「この程度の雪、問題ない。先に行こう」との事だった。

だが、個人的には、体調は快復したとは言え、万全ではない。
加えて、この雪だ。

本当は今日、ABCを目指す予定でいたが、
一つ手前の標高3700mのMBCで一泊し、明日ABCを目指すことにした。

朝食を食べ終わり、外に出ると、一旦雪は降り止んでいた。
このタイミングを逃すわけにはいかない。

僕たちは雪道を出発することにした。

熱が下がり、しかも筋肉痛も和らいだ僕の足取りは軽かった。
雪による山道が滑るのと寒さはあったものの、
目的地のMBCには昼過ぎには到着してしまった。

ここに泊まることにしたものの、夜まで何もすることもない。

雪もあがり、雲の切れ間から青空が覗く中、
後続の登山客は続々とABCを目指して、MBCを通過して行った。

標高3700mの山小屋は寒い。
ここで一泊して、明日ABCで一泊するより、
やっぱりこれからABCを目指した方が、いいのではないか。

昼食を待ちながら、先に進みたそうな嫁とどうしようか話し合った。
エムビは、どちらでもお好きにどうぞと、僕たちの議論を見守っていた。

そこへ、昨日、山小屋でコーヒーをご馳走になったフランス人の青年がMBCを通過した。

「そんなところで何やってんだ!?ABCに行こうぜ!待ってるよ。」

ジーンズで雪山に挑む彼の姿は、僕たちの背中を少し押した。

昼食を食べてみたが、食欲も問題なく、体調は快復したようだ。
ABCに行く方向で心は固まりつつある中、トイレに向かった。

用を足して水を流そうとするが、凍っていて、水は流れない。
僕の分身と丁寧に拭いたトイレットペーパーが便器の氷の上に残されていた。

困ったなぁどうしよう。
あたりを見渡すが、解決する手立ては見つからない。
何せほとんどのものが凍っている。

よし、見つかる前にここを出よう。

僕の意は決した。これから、ABCに向かおう。

MBCから、ABCまでの道程はなだらかな登り坂だった。

きっと雪がなければ、どうってことのない道なのだが、
僕たちの前には雪が立ちはだかった。

前を歩いていた韓国人観光客が、アイゼンを装着するため立ち止まる中、
僕が身につけていたのはナイキ社のスニーカーだった。

しかもこのスニーカー、
エアウーブンと言う、親切にも横がメッシュ状になっているため、
通気性も抜群で、反面、透水性も抜群という逸品だった。

徐々に、水が浸透し、足先が冷える中、
度々、雪に足を取られては前に後ろに転びながら、一歩一歩と前へ進んだ。

ABCが遠くに見えて、あと少しと思い前に進むが、なかなかABCは近付いてこない。

▼大きな石に記された文字は「ここからABCまであと1時間」
IMGP6871.JPG

途中で、ABCから下りてきた日本人とすれ違った。
この方は、昨晩、山小屋で一緒だったのだが、定年をすでに迎えているとのことだった。
負けてはいられない。

先の方を歩くトレッキング客と、後ろの方にいるトレッキング客を励みに、歩を進ませ、
陽はすっかり雲に隠れ、肌寒くなってきた16時手前にABCに辿り着いた。

遂に、富士山より高い地点までやってきたのだ。

道中、楽な道程ではなかっただけに、感動も一入だった。
嫁とエムビとハイタッチで到着を祝した。

辛い時は、一緒にいる嫁にかっこ悪い姿はあまり見せられないなとか、
ここで辞めたら恥ずかしいなぁと友達の顔を思い浮かべることで、ここまで来れた。

ふと目頭が熱くなったが、見上げた空には分厚い雲がかかっていた。

何はともあれ、ABCに着いたのだ。

山小屋の部屋に荷物をおいた後、
嫁と日本代表のサッカーシャツに着替え、周辺で記念撮影をすることにした。

するとタイミングを見計らったように、雲がきれ、アンナプルナ連峰が姿を現した。
まるでぼくたちの到着を歓迎してくれているかのようだった。

言葉はいらなかった。

これまで遠くに眺めてきた山々が、すぐそこにあった。

ABCは四方八方を山に囲まれた場所に位置していることもあり、
前を向いても後ろを向いても圧倒的な山々がそこにはあった。

「今日ABCに行く」その決断に間違いはなかった。
IMGP6888.JPG

氷点下の寒さの中、一通りの写真を撮り終え、
山小屋のダイニングへと向かった。

昨日、湿布をくれた日本人がすでに到着しており、
「一緒に飲む?」とポットで頼んでいたホットレモンを注いでくれた。

「来ちゃったんだね!高山病、大丈夫そう?水分とりなよ。」

このホットレモンは、本当に美味しかった。
ただのホットレモンなのだが、特別なホットレモンだった。

山小屋にはゴレパニ・タダパニの宿で一緒だった欧米人夫妻もいた。
道中、何度かすれ違った韓国人の青年もいた。

一本道を進んできただけに、皆、顔見知りになりつつあった。

皆でヒーターの効いたダイニングに集まり時間を過ごしていた。

欧米人夫妻は、オーストラリアからきていると言う。
2ヶ月間ほど旅行をしており、
このネパールのあとはキリマンジャロに向かうらしい。

韓国人の青年は、1ヶ月強旅行しており、
アンナプルナの周りを歩いたのち、ベースキャンプを目指してきたのだと言う。

旅をしていると、自由な働き方、生き方をしている人によく出会う。

それが、その国の国民性なのかは定かではないが、
今後、日本の働き方も、もう少し柔軟性が出ても幸せなのでは、と思う。

薄暗い部屋の中で、各自食事を摂った。

その後、ヒーターからの暖をとるべく、
ダラダラとダイニングで時間を過ごしていたが、
消灯ということで、20時前にダイニングを離れた。

トイレに行くが、今度は便器どころか足元もすべて凍っていた。
4000mを超えた夜はまた違った世界だった。
滑って足を突っ込んでしまわないよう気を付け用を足し、部屋に戻った。

部屋は凍える寒さだった。
昨晩同様、着込んだ上に、ブランケットを寝袋の上にかぶせ寝ることにした。

day24:2012年12月13日】下山開始

一度は寝付いた。
むしろ良く寝た気になって目が覚めた。

朝はもうすぐかと思い、時計を見ると、まだ2時にもなってなかった。

あれ、よく寝た気がしたんだけどな。

再度、寝つこうと試みたが、よく寝た気になったせいか寝付けない。

寝よう、寝ようと心を落ち着かせるが、
呼吸の度に体に流れ込んでくる空気が、これまで感じたことがないくらい冷たい。

落ち着いて呼吸をしようとするが、逆に焦って息苦しい。
吸った空気からちゃんと酸素を体に取り込めているのだろうか、と心配になる。

寒さで少しばかり頭も痛い。

「高山病は夜、寝る時に結構来たりするから気を付けなね」

そんな事を聞いたけど、これ高山病かな。
ふと頭をよぎる。

そうは言っても、ここは4130mの深夜。
とにかく朝まではどうしようも無い。

落ち着こうと、呼吸に集中すると逆に冷気を感じてしまうので、
気を紛らわせるために、バッグからiPadを取り出した。

読みかけだった「ウケる技術」に目を通す。
気を紛らわせるにはこれくらい軽い本が丁度いい。

ウケる技術 (新潮文庫)
ウケる技術 (新潮文庫)

posted with amazlet at 13.04.16
水野 敬也 小林 昌平 山本 周嗣
新潮社
売り上げランキング: 2,849

「ウケる技術」を読み終わり、
他の本をパラパラと眺めていたところ、眠気がやってきた。

iPadを置き、再び僕は眠りについた。

次に目が覚めた時、あたりは明るくなっていた。

ドアを開けると、また雪が降ったようで、白銀の世界は深さを増していた。

さて、動こう、と、靴を履こうとしたら、
昨日濡れて乾ききらなかったスニーカーは凍ってカチカチだった。
部屋の中の温度はそんなものだったのだ。

ヒーターが消えた寒いダイニングで朝食を摂った後、
僕たちは、下山を開始する事にした。

少しでも早く少しでも低地に移動した方が、体調的に良さそうだった。

ABCと最後のお別れをした後、雪が深くなった道を下り始めた。
途中までの緩やかな道は、歩くというより、むしろ、
靴をスケートのように滑らせながら前へ進んだ。

急な斜面、踏み荒らされた斜面を尻餅付きながらも下り、
何とか昼頃には昨日の出発地点であるヒマラヤに着いた。

食欲が再びあまりない。

水分を多めに摂り、荷物をピックアップし、
午後、さらに低地を目指して出発した。

夕方を前に、2300mのバンブーまでおりてきた。
1800m下ってくると、流石に空気が比較的暖かく感じられた。

しかし、2日ぶりにシャワーを浴びようとするが、お湯がぬるい。むしろ冷たい。
逆に体が冷えてしまった。

依然食欲もない中、奮発してレッドブルで鋭気を養うことにした。

昨晩も一緒だったオーストラリア人夫妻とダイニングのヒーターを囲み時間を過ごした。
1月にオーストラリアに行くというと、いくつかアドバイスをくれた。

「タスマニアはとてもいい場所だよ」
「海ならメルボルンからアデレードまで走るといい!」
「エアーズロックは夏は暑すぎるからあまりすすめない」

夕食を無理やり胃に詰め込みヒーターにあたっていたが、
どうも体調がすぐれないので横になることにした。

横になって消化に努めていたが、時折ヒーターのガスの匂いが鼻に付く。

こみ上げてくる気持ち悪さを感じ、外に出た。

冷たい風が気持ち良かった。
しかし、トイレに向かい便器を見えかけたところで、
再度気持ち悪さがこみ上げてきて、飲んだもの食べたものをすべて戻してしまった。

ネパールのヒマラヤの大地に、僕の食べたものが原型を残したまま広がっている。
せっかく奮発したレッドブルが台無しになってしまった。
しかし、お蔭で気持ち悪さは全くなくなり、爽快な気分になった。

見上げると、これまでの山小屋では見られなかった満天の星空が広がっていた。
大地と大空が包み込んでくれるような爽快さだった。

戻ってガイドのネパール人、オーストラリア人夫妻と政治や経済の話をかじった後、
ダイニングを離れ、嫁と満天の星空を見上げた後、自室に戻った。

2300mの山小屋、2日ぶりの落ち着いた睡眠となった。

day25:2012年12月14日】川沿いの露天風呂

朝起きると、気分爽快だった。

昨日、夕飯後に戻したこともあって、寝起きから空腹で、
朝食をしっかりとることができた。

この日は、チョムルンまでは、下って登ってと、来た道を逆に進んだ。
振り向くと、ABCは厚い雲に覆われていた。
実にいいタイミングで登ったものだ。

チョムルンで昼飯を食べた後、そこからジヌーという村まではひたすらに下った。

チョムルンまでの登りが辛かった僕とは裏腹に、
嫁は膝を痛めていて、下りが辛そうだった。

このジヌーという村にはホットスプリングがあると聞いていた。

「温泉」という響きにワクワクもしていたが、
ネパールという異国の地の「ホットスプリング」が本当に期待通りのものか半信半疑でもあった。

風変わりな「ホットスプリング」を少しは期待していたのだが、
実際には、イメージしていた「温泉」に近かった。

ジヌーにあるとは言うものの、
山小屋から歩くこと片道20分の川沿いにホットスプリングはあった。

簡素な更衣スペースの奥に、2つの露天風呂と体を洗う場所がある。

IMGP0865.JPG

少しぬるいため上がる時、肌寒く感じるが、久し振りにゆっくり温まることができた。

20分の道のりを戻り、洗濯をして一息をつく。

1900mまでおりてきた。
体調はもう快復しており、この頃には筋肉痛もなくなっていた。

day26:2012年12月15日】最後の山小屋生活

朝起きると気持ちのいい天気だった。

この日はトルカという村を目指して歩いた。

ここまでくると今までと比べると楽で余裕のある道のりだった。

徐々に遠のくアンナプルナ連峰の山々がとても綺麗だ。
かつ、自分たちがあそこまで足を運んだと思うと、感慨深い風景だった。

トレッキング前に見上げた山々とは一味も二味も違う。

アンナプルナ連峰の山々を見ながら、これからどうしようか嫁と話した。

「ポカラに一泊なんてもったいない。」
ABCで一緒だった韓国人青年に言われた言葉が頭に残っていた。

当初は、歩いてポカラまで戻る予定だったが、
そうなるとポカラではあと一泊しかできない。

ここからはずっと似た風景の中のトレッキングになるようだ。
それなら、明日向かうダンプスから、車で街に戻ってポカラで3泊するのも悪くない。

エムビに聞くと、どちらでも構わないと言う。

トルカの山小屋に着き、アンナプルナサウスを眺め、お茶を頂きながら、
僕たちは、明日のポカラに戻ることにした。

トレッキングの記念にと嫁が山小屋前で売られているお土産屋さんを覗いていた。
山を降りればもっと安く買えるが、思い出にとミサンガを選んでいた。

嫁がミサンガだけを買おうとすると、どうも別のアクセサリーも勧めてくる。
断って、ミサンガの値段交渉しようにも、すぐ別のアクセサリーの話に切り替える。

拉致があかず、ミサンガの値段交渉は諦め、当初の言い値で買おうとしたが、
「一つしか買わないのかい?なら売らないよ。」と交渉決裂した。

そんなに売れなさそうな路上のお土産屋さんだし、
売れなきゃ生活できないのだろうから、一個でも売ればいいのに、
自分の思った方に進まなかったからご機嫌斜めになってしまったようだ。
意味不明な子供のようなおばさんだった。

こちらも別にそんな人から買いたくないので構わないのだが、
何とも残念なお土産屋さんだった。

トルカでの山小屋生活がこのトレッキング最後の山小屋生活となる。
アンナプルナサウスにあたった夕陽を僕たちは部屋の前からずっと眺めていた。

day27:2012年12月16日】ポカラに帰還

朝起きて、最後のトレッキングに臨んだ。

トルカを出発し、しばしの間、登り坂が続いた。
昨日はなかった久々に長い登りだったが、最後だと思うと足取りは軽かった。

昼前には最後の目的地ダンプスに到着した。

食欲も快復していた僕は、
最後にネパール定番ダルバートを食べ、僕たちのトレッキングは幕を閉じた。

昼食後、車がきている場所まで1時間弱程下り、ポカラへ向かった。

ポカラは相変わらず落ち着いて穏やかな街並みだった。

山小屋の食事はいつもほぼ同じメニューだったので、
この晩はD.B.MOMOという日中韓料理屋に足を伸ばした。

店においてある醤油の瓶ですらとても懐かしい感じがする。
キムチ炒飯、なす味噌炒めと山小屋生活では絶っていたビールを頼んだ。
ビールは少しホッピーのような味ではあったが、
慣れ親しんだキムチ炒飯となす味噌炒めははとても美味しかった。
量は多めだったが、2人ともペロリとたいらげた。

夜はホテルで温かく湯量のあるシャワーを浴びた。

やっと低地に戻ってきたと言う感じだ。

溜まっていた洗濯物はホテルのフロントに依頼することにし、
この日は久々にホテルのベットで眠りについた。

day28:2012年12月17日】のんびりポカラ

特に予定のない一日の朝はゆっくりと始まった。

朝起きて、ホテルの食堂で朝食を食べる。
インド入って以来お決まりの、トーストにオムレツ、お茶のセットだ。

食べ終わると、さてどうしようかとiPadを開いた。
インターネット自体、山小屋での使えなかったので久々だ。

調べてみると、
落ち着いた穏やかな街ポカラにはそこまで見所という見所はないようだった。

「落ち着いた穏やかな雰囲気」それこそが一番の見所はなのだろう。

山道であった日本人に勧められた日本食レストランで昼は食べることにして、
それまでの間、再び街中を散歩することにした。

10日ぶりにポカラのペワ湖を歩く。
遠くにはアンナプルナ連峰が見えた。
しかし、その見え方は、見知らぬ土地に初めて来た10日前とは違う。
あそこまで自分の足で行ったかと思うと、少し誇らしかった。

湖畔と街中でのんびり過ごしたあと、
昼時にポカラの日本食レストラン「桃太郎」に足を運んだ。

カトマンズに本店があり、
支店がポカラにあるという老舗の日本食レストランのようだ。

天丼とカツ丼を頼む。

棚をみるとONE PIECEの53巻と54巻が置いてあった。
日本人に旅行客が置いて行ったのだろう。

ご飯が出てくるまでの間、サービスのお茶を飲みながらONE PIECEを読むことにした。

海に面していないネパールで読む大航海物語。
2週間後に行く海に囲まれたオーストラリアについて、
何も決めてないな、どうしようと思い巡らせていると天丼とカツ丼が運ばれて来た。

インペルタウンに幽閉されたままのエースのことが気になりながらも、
オーストラリアについては、結局何も決まっていないまま、
しばし、目の前の日本食に集中することにした。

この天丼とカツ丼、なかなかに美味しかった。

確かに、周りのネパール料理と比べると値段は高めだが、
そうは言っても日本より安い値段で味はそこそこ美味しい。

ネパールに居つく日本人が多いというのも納得できる。
少なくともインドより友好的で、物価も安い。日本食も手軽だ。

満足行く食事をとった後、FREE Wi-Fiのある湖畔のカフェを探し、
ゆっくり溜まったメールへの返信やFacebookの更新をする事にした。

海外旅行をしている中で日本食が続いている多少の罪悪感から、
夕ご飯を食べられるネパール料理屋を調べ、夜はそこに行く事にした。

口コミで評判のいいタカリキッチンに足を運ぶと、
外見、内装からして少しお洒落な雰囲気を持っていた。

山小屋でのダルバートも美味しかったが、
街中のレストランのダルバートも洗練された感じで美味しい。

この日はゆっくりと「食」で終わった一日だった。

day29:2012年12月18日】ポカラ最後の夜に地酒ラクシを嗜む

特に予定のない2日目の朝は昨日と同じように始まった。

少し遠くまで歩いてみようかとポカラにある洞窟を目指す事にした。

iPhoneで地図を確認し向かったが、
どうも示された場所に着いても街中で洞窟っぽいものはなかった。

おかしいなと思って警察官に聞いてみると、あっちの方だという。

「あっちの方」を目指して30分ほど歩くがまだ着かない。
再度、空港の入り口にいた人に聞くと、「あっちの方」だがまだ距離があるという。
バスを勧められたが、引き続き歩く事にした。

iPhoneの地図があてにならなかった僕たちには、明確な道標がない。
「あっちの方」がホントに正しいのかも、
適当なインドを経て来た僕たちは疑心暗鬼になっていた。

「あっちの方」を目指し、更に20~30分歩いた。
特にやる事もないので、行けるところまで歩こうかと思っていたが、
嫁が、もうどこにあるか分からないし、湖畔でゆっくりしたいと言うので引き返す事にした。

あとで地図を見たところ、
「あっちの方」に更に20分程度の場所に目的の洞窟はあったようだった。

「深夜特急」で地図があれば大体旅はできると書いてあったが、
改めて地図の重要性を感じた。

昨日と同じ湖畔のカフェでゆっくりした後、
宿に戻って夕食をとる事にした。

この日は、これまで手を出してこなかった「Local wine」を頼んだ。

「Local wine」はラクシと言うらしい。
ワインと言う名前だが、見た目は透明の液体がグラスで運ばれてきた。

ポカラ最後の晩餐に乾杯し、一口飲んでみる。
少し燻した感じの匂いのする焼酎のような飲み物だった。
何焼酎かは分からないが、不味くはない。
美味いとも言えないが、各国のお酒を飲むのも、また、貴重なひと時だった。

day30:2012年12月19日】カトマンズに戻りトレッキングツアーも終幕

カトマンズに向かうため、朝一にポカラのバス停に向かった。
バス停には各地に向かうたくさんのバスが停まっていた。

ポカラにお別れを告げ、バスでカトマンズへと向かった。

夕方、宿に荷物を置いた後、カトマンズのタメルにあるツアー会社に戻ると、
社長のモウサムさんが「絆」のお味噌汁をご馳走してくれた。

海外で戴くお味噌汁もまた本当に美味しい。

こうして、カトマンズ発、カトマンズ着のABCトレッキングツアー無事幕を閉じた。

少し飲んだお味噌汁ですっかり日本食の舌になった僕たちは、
このカトマンズでも老舗の日本食レストラン「おふくろの味」で夕食をすることにした。

すき焼き定食と肉野菜炒め定食を戴く。
日本で食べるのとは何か違うのだが、やはり美味しい。

海外で日本食を食べ比べるのも悪くない。

居心地のいいネパールも出国まであと3日となった。

day31:2012年12月20日】チャリでカトマンズ観光

朝食後、のんびりチャイを飲みながら、時間を過ごした。

一部屋一泊1000円程度の宿なのだが、
朝食がついていて、かつ、チャイがいつでも飲み放題というのが嬉しい。

昼食はモウサムさんに「絆」で日本食をご馳走になった。
カツ丼にお味噌汁に加え、白飯のおにぎりを頼んだ。
最後に白飯と食べたいととって置いた持参の梅干しを横に添えた。

白飯に梅干し。
最高だ。

昼食を終えた僕たちはカトマンズの市内観光に出かけることにした。

タクシーもお金が嵩むので、タメルでチャリを借り、街に繰り出した。

カトマンズの街中を走ってみると、
チャリは悪くないのだが、乗り心地はあまり良くない。

まず、空気が汚い。
ネパール人ですら良く黒いマスクをしている人を見かけるくらい、
排気ガスと誇りと砂で空気は淀んでいる。

そして、道路が悪い。
道路に所々穴が空いていたり、段差があったり、基本整備されていない。
日本と比べて、どこまで整備すべきなのかは考えさせられるところだ。

加えて、交通量も多い。
自転車も道路を一緒に走っているわけだが、
なかなか曲がれなかったり渡れなかったりもする。

乗り心地が良くはなくても、
そんなカトマンズの空気も感じられるのも旅の醍醐味だ。
IMGP1051.JPG

IMGP1048.JPG

2人でカトマンズの観光地を駆け抜けたが、
2箇所ほど回ったところで、あたりは暗くなって来てしまった。

パタンにも行ってみたかったが、明日行くことにして、
タメルに戻って、この日の市内観光を終えることにした。

day32:2012年12月21日】「地図が読める」という自負はどこへやら

朝食を食べたのち、昨日行けなかったパタンを目指してみることにした。

ポカラの反省から地図を片手に、
歩いても1~2時間で行けるだろうと、節約のため徒歩で向かうことにした。

タメルからダルバール広場を経由して、いざパタンを目指した。

しかし、歩き始めて1時間を経過したあたりから、雲行きが怪しくなって来た。
目の前の道路と地図がどうも一致しなくなってきたのだ。
それでも、大体この辺にいるはずだと見当をつけて歩を進めた。

地図が少し正確じゃないのかもしれない。
それなりの時間を歩いているし、大体の方角はあっているから近いはずだ。
日頃から地図は読めるという自負を持っていたのが一番いけなかった。

更にもう少し歩いた後、
完全に地図上での自分の場所を見失ってしまったため、
街で人に地図を見せながら、訪ねるがどうも的を得ない。

今どこにいるのですか、パタンはどこですか、と訪ねても首を傾げる。
パタンにも「ダルバール広場」という場所があったので、
これはどこですか、と聞くとこっちの方だと教えてくれた。

しばし歩いていると、街の雰囲気が少し、歴史を感じさせる面影になってきた。
再度、警察官にダルバール広場の位置を聞くと、
この道を真っ直ぐ行くと着くと教えてくれた。

かれこれ出発して2時間は歩き続きていた。

街中の写真を撮りながら、先に進んだところで事件は起きた。

なんと、朝見た建物と全く同じ建物が目の前に現れたのだ。

ん、どういうことだ。
まったく理解することができなかった。

タメルのダルバール広場はパタンのダルバール広場を真似て作ったのだろうか。
それにしても、広場の周りにあるお店とかカフェまで一緒とはどういうことか。

もう一呼吸おいて、考えて、やっと状況を理解した。

道を間違えていたのだ。

みんなが丁寧に教えてくれていた「ダルバール広場」は、
パタンのやつではなく、タメルのやつだったのだ。

パタン周辺の地図を見せながら、今どこかを聞いていたため、
みんな首をかしげて答えてくれなかったのだ。

小さなカーブを曲がった時に、
もっと大きなカーブを曲がったと勘違いしたのが、地図上の間違いだった。

でもそれ以上に、自分は地図が読めるという過信のせいで、
その地図の読み間違いに最後まで気付くことができなかった。

「地図があれば旅ができる」と思った矢先に躓いた。

なんとも情けなくなってきた。

その後、結局タクシーでパタンまで行ったが、
早々にタメルに戻ってきた。

ネパール最後の晩餐にタメルで1番と言われるダルバートを食べながら、
過信は良くない、と自分に言い聞かせた。

今後の旅行に向けて気持ちを引き締めさせるためのものだったのだと前向きに考えた。

ネパール最後の夜は、いつも通り停電で真っ暗な中ふけていった。

day33:2012年12月22日】ネパール出国、再びのデリーへ

ネパール最後の朝を迎えた。

朝食後にお代わり自由のお茶を何杯か頂いた後、
ネパールのお土産を手に入れようと、最後にタメルの店を物色することにした。

日本円で500円程度で気に入った椅子もあったのだが、
今後の旅の荷物にもなるし、送るにもお金がかかるので、諦めた。

幾つかの店を覗いた後、気に入った柄の大判の布を買い宿に戻った。

宿をチェックアウトするとき、
受付にいた青年がはにかみながらネパールの細長い生地を首にかけてくれた。

こうした宿の気遣いは嬉しい。
また来たいと思えるネパールだった。

空港までのタクシーを拾おうとしていると、
アンナプルナの山中であった日本人旅行者と遭遇した。

聞くと、自転車で世界一周している日本人と山で会い、
触発されて、これから自転車で旅するために、自転車を買いに行くのだという。

物凄い行動力と決断だ。

立ち話をしたあと別れ、タクシーで空港に向かった。

空港でチェックインを済ませ待っていたが、出発20分前になっても搭乗口が表示されない。
どうしたものだろうと不安になった頃に、掲示板に搭乗口が表示された。
小さい空港だから、そのようなオペレーションでも十分間に合うのだろう。

デリー行きのスパイスジェットの飛行機は、
他の便との兼ね合いで搭乗に時間がかかったため30分遅れながらも無事出発した。

初めてのLCCで、どんなものだろうと思っていたが、
機内サービスが有料な以外は、席もゆとりがあって、快適なフライトだった。

快適なフライトの先にはまたインドが待っている。